アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

感受性と食物アレルギー

 先日、知人が緊急事態宣言下のお見舞いとして、「富山名産 鱒の寿し」を送ってくれた。箱の中にとろろ昆布と干し柿も入っていて、心の温かさが沁みた。

 ところが、である。私には生鮭アレルギーがあった。焼塩鮭のおにぎりぐらいの量なら良いが、お刺身やスモークサーモンを食べると唇と口の中がかゆくなり、唇が腫れてタラコのようになってしまうのが常だった。

これが食道などまで広範囲に起こると「アナフィキラシーショック」という状態になって、命に関わるそうだ。

 でも、せっかく送ってくれたし、食べたことのない銘柄(吉田屋鱒寿し本舗)でおいしそうだったので、「少々腫れてもいいや」と思って食べることにした(鮭の味は好きだし、「食べられないもの」があるのも悲しいので、ちょっとだけ食べるようにはしていた)。

 食べてみると本当においしくて、思わず一般的な円形サイズ(の半分も食べてしまった。その後、口の中がなんとなく痒いような感じがしたが、「痒いな」と思って気にしないでいたらそのまま消えて、いつものタラコ唇にはならなかった。どうも、私は生鮭アレルギーが治ってしまったらしい。

 思い返してみると、私がアレルギーになったのは小学生の時からで、輸入のキングサーモンを食べたのがきっかけだった。

 ものすごく脂っぽくて、これまで好きで食べていた日本の鮭とは味が全く違うのに驚き、「嫌だ!」と思ったのだが、父の海外出張のお土産で、「まずい!」とか「嫌い!」と子どもながらに言いにくく、我慢して食べた。その後から、鮭で口の中や周りがかゆくなるようになったのだ。

 出来事としての記憶だけで、その時、嫌だという感情を抑えたことは漠然としていたのだが、今ははっきり「嫌だったのに我慢したんだな」と分かる。

 あまり一般化はできないが、私の鮭アレルギーは、私の「嫌だと思っても我慢してしまう」という心の癖が取れてきたことで治ったのではないかと思う。

 野口晴哉はこういうことを、「体の記憶」が条件反射的に同じ反応を繰り返させているのだと言う。

 この場合の条件反射というのは、「鮭を食べる→唇が腫れる」という物理的な刺激反応というより、「鮭を食べる→唇が腫れる」の→に「情動(嫌!)」があり、情動によって結びつけられていることを言う。

 トラウマ理論的に原因と結果だけで考えると、変えられない、治らないとなってしまうが、そこにある自分の感受性(私は特に「嫌!」が強い)と、抑圧する心の癖を自覚して、嫌だと感じたら食べるのをやめる、というように、感じたことが自然に行動になるようになっていけば、アレルギーが治ることもあるのだ。

(秋のキンモクセイの匂いと春先の過敏反応はあるけれど。)

 しかし、それは頭だけではできない。行動を変えれば心が変わるという場合もあるが、アレルギー反応のような無意識的な反応は、「嫌な時は食べないようにしよう」と意識的に行動だけを変えても、感受性が変わらなければ変化しないものだ。 

 意識しなくても、「嫌だ」で固まらずに、すっと「食べない」という行動に移れるようになっていくというのが整体だ。その心の動きと体の動きの間に、錐体外路性運動系、潜在意識、感受性がある。

 指導する側としては、花粉症や食物アレルギーなどがあるのは結構恥ずかしいし、「整体やってるのに?」と言われるのもイタい。でも、こういう過程というものは、治った事実以上に代えがたい経験智になる。

 私は、野口先生のようには、いやその弟子の我が師匠のようにもいかないけれど、歩む道筋はここにある!と改めて思った。