アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

ストレスとレジリエンスについて

 先日、ある人と電話で話をしている時に、かなり嫌なことがあった。嫌なことであると同時に腹の立つことであり、がっかりするようなことでもあった。

 また?という感もあるが、今回は、こういう情動がどんな風に体に影響するか、この状態をどうやって抜け出すか、について書いてみようと思う。

 その電話の数時間後、私は不意に立ち上がった拍子に、立ち眩みと胸苦しさを感じて、坐り込んだ。狭心症?と思ってしまう人もいるかもしれない。でも、「ああ、あれが響いているな」と分かったので、手のひらの真中にある「鎮心」という処を押さえて愉気をした。

 だんだん楽になって落ち着いてきたものの、ここまで影響するとは思っていなかったな、と反省する。

 その後、活元運動をし、目下研究中の体操と呼吸法をやって、眠りについた。

 次の朝、早く目が覚めたがうっかり二度寝してしまつた。そして、ふと二度寝から覚めたら左側の首(頸椎)が痛い。動かせない位、痛かった。

 こういう時、よく「寝違えた」と言うのだが、本当に寝ている間の態勢などが原因で首を痛めてしまうなどということはごく少なく、今回は原因が例の「情動」にある。

 そこで頸椎の二番と四番を調整するとあっけなく治った。こう書くと、私の操法がいかにも上手みたいな感じだが、はっきりした痛みが急に起こった時だと効果がはっきり表れる。

 こうした痛みは回復要求であり、治癒に向かおうとしているからだ。

 肝は二度寝の後に急激に痛みが出てすっと引いたこと。これは二度寝で弛んだことによって痛みが出てきたということだ。

 その日、予定がなかったから良かったようなものの、何だか頭がすっきりしなくてうたた寝をしてしまったが、体はすっかり回復した。でも心の中には取り残されたような悲しみが残っていた。

 今回、電話で話した人は、睡眠導入剤を止めることができるようになり、身体的にも病症を経過して、良い方向に向い始めていた矢先だった。

 また、こうなる前触れもなかったわけではないので、電話の後、私は「もう、指導をすることはないだろう」という縁の切れ目も感じていた。

 それにしては、自分の想像以上にショックを受けたのも確かで、それはなぜだったのだろう?

 あまり認めたくはないが、多分、私は「自分はもう必要なくなった」ということにショックを受けたのだと思う。失礼な言葉に対する怒りというのは表面的なことで、奥のショックはそういうことだった。

 体癖的な感受性とも言えるけれど、私の仕事では、はっきり言って「頂けない」受け取り方だ。

 以前私は、こういう感情を他人の中に見て、嫌だと感じたことがあるが、自分の中にもあることが分かってしまった。

 五輪書的に言うと、私は頼られている状態に居付いて、良い方向に向かい始めた相手に適応していなかったとも言える。

 この出来事はごく小さな、軽度のことではあるが、こんな風に、症状を経過することで、情動によるショック状態から体全体が立ち直っていく。

 私が師匠から学んだ個人指導とはこういう過程を手伝うことが中心だったが、他の指導者にはまた異なる見方があるかもしれない。

 それはともかく、こういう出来事を身体的に経過することを通じて、自分の気づかなかったこと、それは往々にしてあまり認めたくないことなのだが、それを見付けることには大きな意味がある。

 もちろんすぐにこういう感受性が変わるということはない。しかし、気づきがあると、次にはもっと早くにショック状態から抜け出せたり、ここまでショックを受けなくなったりする。

 一方、ここに気づかないでいると、気づくまでこういう出来事を繰り返し経験することになる。

 つまり、これは今流行りの言葉で言うと、ストレスに対する「レジリエンス(回復力・弾力)」を高めるという意味があるのだ。

 また、漠然と症状のあるなしだけで見過ごされやすいが、身体的な治癒過程は、心理的にも気づきや変化が起こる時である。内に向かうことで、これまで知らなかった自分を理解する、心の発達過程になるのだ。

 コロナ禍でストレス障害に対する関心は高まったが、ストレスを自分と外界(職場、家族などの人間関係など)という関係で考え、被害者的に受け取ることが多いように思う。

 実際、理不尽な人間関係や環境の急激な変化など、苦しい立場にあることは多いが、自分の問題に気づくことなく、その状態から抜け出すことも難しい。

 やはり、ストレスの正体が「不快情動」であること、そこから身体が立ち直る過程として身体症状が起こることを知ると、普段経験する病症の見方が変わってくる。

 

 未熟な私の個人的経験ではあるが、ストレスとレジリエンスを考える上での素材にしていただけたらと思う。