アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

生と死の連続性

 前回、知人の写真家が制作したMVを見たことについて書いたが、あれから私の中で変化が起きている。その写真家は自死したこともあって、私が思い浮かべる彼女の顔は、自分の苦い思いに色づけされて、何となく寂し気で表情が暗く、止まっている時間の中にいるような気がした。

 しかし、なぜかその顔が明るくなって、少し笑っている。そして、私の中で彼女の死についての受け止め方も変わった。

 あのMVを見た時、私はカメラの向こう側にいる彼女が生きた密度ある時間を、再現しているように感じたのだが、なぜかその後から、「自死したことは、彼女が生きた人生の結果ではない」とはっきり思うようになった。

「供養をする」というのは、もしかすると本当はこういうことなのではないかという気がしている。

 私の知人に、若いころ恋人を自死で失うという経験をした人がいる。その人はその経験を封印して、仕事に打ち込み、仕事の助けとなる女性と結婚し、家庭を持ち、経済的にも自分の想像以上に成功した。

 しかし人生の後半に入って、切り離したはずのその時のことが心に影を落とし始め、心のバランスを崩してしまった。最悪の時期をぬけて何年も経つが、終わってはいないようだ。

 このような出来事を乗り超える力というのは、その人の成育歴が大きく関わっていて、一概には言えないのだが、彼の中にはその時の感情とともに止まってしまった時間があって、ストレス負荷がかかると彼をその時に引き戻してしまうのだ。

 私は以前、自死をすると成仏できないとか、悪い生まれ変わりをするとかいう宗教的・スピリチュアル的言説を信じることができないと書いたが、それが本当はどういうことなのかが少しわかったような気がする。

 多分、自死をするということは、生命時間の流れを断ち切ってしまうことであり、それがつながりのあった人の心にも、切断の跡を遺してしまうのだと思う。

 上手く説明できないのだが、本当は、そのことを「悪」と教えるために自死はいけないというのではないだろうか。

  これは、私の師匠の死を経験して思うのだが、死んだ直後のショックを抜けた今になってみると、私の中で先生の死というのは、ある節目ではあっても、先生の人生、私が先生と過ごした時間の流れと連続している。

  病院に搬送される前日、私はこっそり先生の寝室に入って会ったのだが、その時、私は先生の顔に死相を観た。私に死相が観えるのを先生は知っていたし、私の表情で私が何を直感したかは分かったはずだ。

 その時、先生は、私に手を差し出し、握手をして「待ってろ、いいか」と何度も言った。たぶん先生は、野口整体の指導者である自分が病院に入れられ、病院で死ぬのを私に見せたくはなかったのだろう。

 でも、それまでに過ごした時間の密度、先生の死の受容、死に際、死に顔、そうしたこと全体が、私のなかに生と死を切断ではなく連続だということを教えたのだと思う。生きている体がないことに寂しさはあるとしても。

(先生の臨死時には、ある不思議なことがあって、それもまだ誰にも言えないでいるのだが、そのことも大きく関わっている)。

 生と死が「切断」として感じられるか、「連続」として感じられるかというのは、大きな違いがある。それは遺された人にも、おそらく亡くなった人にも影響するのかもしれない。

 日本人の死生観と臨死体験を研究するカール・ベッカーは、「臨死体験が宗教の基にあるのであって、宗教が臨死体験を作るのではない」と言っているが、私も宗教の核心にあることではないかと思うようになった。

あの時彼女がなぜ自死を選んだのかは分からないし、本人だって明確には分からないのかもしれない。その時はそうするしかなかった、できなかったということだと思う。

 でも、亡くなった人とのつながりは切れてしまうわけではない。自死したということで彼女の印象が暗いままになっている私にとって、あのMVは、彼女に真剣に生きた時間があることを教えてくれるものだった。そして心の中の彼女のイメージが明るくなった。

 きっと彼女はそのことを喜んでくれている。そしてより多くの人に、あのMVのなかにある、彼女が見つめたこと、彼女の生きた時間を観てほしいと思っているだろう。名前は出さないけれど、私もそれを祈る。それが表現者であった彼女に対する最高の供養と思いつつ。

布団乾燥機の整体的活用 再び

 以前、このブログで「布団乾燥機の活用」をおすすめしたことがあるが、布団乾燥機は「睡眠と呼吸を深くする」という整体の第一法則の助けとなるものだ。

 そこで、布団乾燥機を持っている人は、もし自身や身近な人がCOVID-19を発症して自宅療養となった時、布団乾燥機を使って、布団を乾かし温める(熱すぎるのは厳禁)ことを覚えておいてほしい。できれば毎日がいい。そして水を少しずつ飲むこと(ガブガブ飲みは×)。

 これで治りますとは言えないのだが、古代ギリシアの名医ヒポクラテスは、医師の心得として、流行病にかかった患者には「益を与えよ、さもなくば無害であれ」と言ったそうだ。少なくともその心得は満たしていると思う。

 一都三県は、もし感染したらという想像力を持たなければならない段階で、一人で乗り超えなければならない人も多い。ちょっと心にとめて置いてほしい。(私は家電メーカーの回し者ではない、一応。)

 ところで最近、いつも読んでいるブログに、一緒に野口整体を勉強していた知人の女性写真家が制作したMVが紹介されていた。カメラは定点観測のように動かない。グレー一色の背景で、歌う人の頭と上体だけが映し出されている。衣装も黒のタンクトップ一枚。

 そういえば彼女は出会った当初、駅などで声をかけ、いろんな人のポートレートを撮っていると言っていた。私は「あの大きな古いカメラで撮るのは大変だろうな…」と当時思ったのを覚えている(冷え性だし)。あの一般の人のポートレートは今、彼女の作品群として遺っているのだろうか。

 このMVでも、歌っている人は歌うのに必要な体の動きしかしない。歌うポートレートみたいで、カメラの向こう側に彼女が存在することが、この人の、この表現を生み出しているように感じる。あの頃彼女がやっていた作業とつながっているような気がした。

 人間の写真を撮る時は、撮る人が被写体に与える影響が作品に大きく関わっている。街中でも、彼女の集注力でカメラを向けられたら、シャッターを切る瞬間は、自分と相手だけの世界になっていたのではないだろうか。

 彼女はこういう「気の感応」の瞬間を撮ろうとしたのかもしれない。自身が発見した「この人」、そして自分と対峙する今を切り取った写真を、見てみたいなと思った。

 

整体と里山の自然

 先日、かつて不眠症であり、今も「眠りが浅い」「早く起きてしまう」という人から、「寝る前に瞑想をやっている」という話を聞いた。

 瞑想法というのは、マインドフルネスなどをはじめとして、ネットで検索すればやり方はいくらでも出てくるので、何となく一人で、指導を受けなくてもできるというイメージがあるようだ。

 そして、頭と体が弛むということがないまま(分からないまま)やっていることの問題をつよく感じた。

 その人は聡明な人なので、自身が頭で体を支配しようとする傾向が強いことに気づき、「体が弛む、ということはその支配を手放すこと」という説明をよく理解してくれたのだが、なかなかこの理解は難しいことが多い。

 潜在能力の開発、心の問題の解消、その他「こうしよう」「こうなりたい」という意図(欲?)が頭にあるだけで、体というのは意地悪なぐらい、弛まなくなる。

 ま、それはともかく…。ロックなビジュアルで有名な国立環境研究所の五箇公一氏は、新型コロナウイルス禍について、「流行の背景にあるのは、人間による野生動物の世界の撹乱」であり、「かつての共生関係を保ってきた人間社会と自然界の間のゾーニング(領域の線引き)を取り戻すことが必要」と言う。

 私の師匠は、「整体というのは里山の手入れをするようなものだ」と言っていた。臓器、脳、さらには遺伝子や細胞の世界が原生林や深海のような奥地にある手つかずの自然界だとすると、古い日本の自然観では「神域」ということになる。

整体が対象とする体表・体壁(皮膚、運動系、感覚系、椎骨の状態)は里山のようなもので、そこを整えるというわけだ。無意識と潜在意識の関係も、奥の自然と里山の関係と捉えられる。

 自然界と人間の共有ゾーンである里山を観察すれば、その奥の様子と全体性を理解することができるし、里山を整えることで奥の自然に立ち入ることなく、環境全体の秩序を保ち、ゆたかな恵みを受けることができるのだ。

だから手を出し過ぎるのも、深追いもいけない。生命のはたらきと流れに沿うことが求められる。

 これは整体だけではなく、東洋的な生命観、身体観には共通している。生きている体、生きている、という状態を外側から観るということで、開いて細分化していく解剖学を基にした発想ではない。

 こう考えると、免疫系は「奥の自然界」に入ると思うが、現代ではそこにほころびが出始めている。新型コロナウイルスは、そこを突破口にして生きる領域を拡大し、種の保存を図ろうとしているようだ。

 体のはたらきは使わなければ「廃用委縮」していく。免疫系を使わずに、薬物に頼ったり殺菌消毒を徹底していれば、その分発達しなくなるし、免疫細胞の学習もなされない。また有事の際に過剰反応したり、止まらなくなったり、体の組織を攻撃してしまうことにもなる。

(COVID-19の重症化には、ウイルスの毒性というより、こうした免疫系の暴走が関わっている。)

 整体では、食べ過ぎや対症療法、心理的要因などで経過が乱れたり滞ったりした時には手を入れるが、必要な経過をたどるための生命時間を早めたりすることはできないし、しようともしない。

しかし現代の多くの人は、症状の管理や操作をするのが当たり前になっていて、「峠を越えた」などと変化の過程を見守ることはあまりしない。民間療法や東洋医学であっても、管理や操作という発想で「利用」しようとする。

 こういうことが、頭が体を支配する傾向を助長しているし、体の自然という、裡なる神の領域があることや、それに対する畏敬というものが分からなくなっていることの大元にあると思う。

 本来、瞑想というのは、裡なる神の領域を感じ、つながりを取り戻すためのものである。本当の安心というのはそこから来るものだし、もともとその存在を前提として瞑想は行われてきた。

 しかし、この瞑想がメソッド化されることで、何かの目的で利用するような気持ちで行われる傾向が過ぎてはいないだろうか。

 野口整体の活元運動も、「利用する」ではなく、「裡の自然にゆだねる」態度で行うことを大切にしてほしい。

(補)変異と免疫

 新型コロナウイルスは、免疫不全患者で感染の症状が長期化する傾向があり、ほかの一般的な感染者よりも免疫不全患者の体内で変異を起こす可能性が高いと考えられている。

 免疫不全患者には、病原体と戦う能力を低下させるまれな先天性疾患を抱える人だけでなく、移植や自己免疫疾患の緩和のために免疫抑制剤を服用している人なども含まれる可能性がある。ちなみに安倍元首相の疾患、潰瘍性大腸炎も自己免疫疾患のひとつ。

(Wired「新型コロナウイルスの「変異」は、なぜ起きるのか? 現段階で見えてきたこと」より)

感染と重症化の違いーまたしても緊急事態宣言

 一都三県に緊急事態宣言が出ることになった。

 今回は前回とはずいぶん違う感じがする。緊張感が走るというより、言葉にならない絶望感、無気力感を感じる。

 現在、医療崩壊が喧伝されているが、忘れてはならないことがある。それは、

・重化する人の割合は 約1.6%(50歳代以下で0.3%、60歳代以上で8.5%)、

・死亡する人の割合は 約1.0%(50歳代以下で0.06%、60歳代以上で5.7%)

厚生労働省新型コロナウイルス感染症の“いま”についての10の知識」)

ということだ。

 ハイリスク群とされている範囲外の人は、新型コロナウイルスに感染したとしても、すぐに命取りになるようなことはない。

 感染者数が増えれば重症者も増え、それが医療崩壊につながるので緊急事態宣言、ということなのだが、心の中で「感染=重症化」という連想が働くようになるのは、実際に感染した時の経過に悪影響を及ぼす恐れがある。混乱せずに頭を整理しておいた方がいい。

 今、予防策を何もしていない人は少数であり、その上でいつ誰が感染しても不思議ではない段階なのだから、感染自体を過剰に恐れることは百害あって一利なし、である。

 最前線で働く感染症専門医の記事によると、軽症者の治療は、検査の後、多くの場合は次のように進められる。

・原則として治療薬は使用されない。

(臨床研究や適応外使用という形で、処方が行われることがある)

・軽症の新型コロナに承認されている治療薬も国内ではまだない。これは軽症の人のほとんどが自然と治癒するため。自身で水分摂取も可能であれば、点滴も不要。

(発熱や咳などの症状に応じて、解熱薬や咳止めなどが処方される。)

 これを読む限りでは、軽症者は整体で言うところの「病症を経過する」のが第一、と言ってもいいようだが、それが現状のようだ。

 蛇足だが、私が以前住んでいた場所でデング熱ウイルスを持った蚊が発見されたことがあった。その時、デング熱の治療法の一つである「経口補水療法」がどういうものかを調べたのたが、「水を飲むこと」とあって驚いたことがある。デング熱も治療薬がないので、こうして経過を待つのだという。

 なお「経口補水療法」はcovid-19軽症者にも重要であり、整体では例年、12月~2月半ばぐらいまで、皆に水を飲むように指導する。

 最近、水を飲むことが血液の質と循環をよい状態に保つ上で重要だと分かり、老人には推奨されているが、冬の乾燥した時期には若い人もお勧めしたい。

 また野口整体の立場からは、もし熱があっても発汗せず、発汗しないまま熱が急に下がるようなことがあったら、経過が悪いと観た方が良いので注意してほしい。これは他の場合の発熱も同様だ。

 

 感染症の研究者、大槻公一教授は2009年の新型インフルエンザについて次のように述べている。

今回(2009年)の新型インフルエンザウイルスについていえば、もっとも危惧されるのは、冬の間にそれが一人勝ちしたことです。例年の冬なら、ソ連型やホンコン型、B型がそれぞれ競り合って出現していたために、どれか一つだけが爆発的に広がるということがありませんでした。

 ところが、昨年の冬は、新型以外のインフルエンザウイルスがほとんど消えました。これらの季節性インフルエンザウイルスが消滅して過去のウイルスとなり、次の冬に新型インフルエンザウイルスが猛威をふるうことも心配されます。

 実際に今、地球上で一番流行しているのは09年の新型インフルエンザだと言われている。あの新型インフルエンザは消滅したわけではなく、私たちが騒ぐことをやめたのだそうだ。

 そして今回の新型コロナウイルスも、インフルエンザウイルスを抑えて一人勝ちしている。コロナウイルスの世界でも、種の多様性が失われているのだろうか。

 それともワクチンや治療薬などの開発で追い込まれたコロナウイルス一族が、生き残りをかけて新世代を生み出そうとしているのだろうか。

 新型コロナウイルスパンデミックには、早くから人間と自然の関係が問題として指摘されていた。これは、個体のレベルで言えば、自然とは体のはたらき、生命と言うことができる。

 もう少し考えて、書いてみることにしよう。

2020年最後の日に

 少し前に引用した、亡くなる三日前に行われた、ジョン・レノンのラストインタビュー(『Rolling Stone』のサイトで全文掲載)の中で、ジョンは次のように言っている。

…何があっても物事は進むし、自己満足に耽るのみ。そして自分の両親の行為を見て愕然とする。誰もが通る道だ。

わざわざそんな道を通りたがるような人間のほとんどは、何もかもあるがまま受け入れて上手くやっている。しかし今起きていることに疑問を投げかけるような人はほとんどいない。

僕は気づいたんだ。僕は自分自身にも他人に対しても責任があるということにね。僕も彼らと同類なんだ。区別はない。僕らは皆ひとつだ。

その意味で僕は思うんだ。「僕もまたあんな風に振舞わなければならないのか。何がリアルなのか。我々の生きている幻はいったい何だろうか」とね。

  時代は違うのに、何だか2020年パンデミック下の私の気持ちを言葉にされているように思えた。

 パンデミックが起きてから、このブログを読んでくれる人が増えたのだが、これは思わぬことだった。野口整体に関わる人も、そうでない人も、この機会に体の正常性とは何か、そしてこの正常性がすでに失われつつあったことが、今の状態につながったことを考えてみてもらえたら、と思う。

 それではみなさん、良いお年を。

 

 前回、アントロポゾフィー医学の見解を紹介したが、この医学と野口整体とは全く無関係である。また、私自身アントロポゾフィー医学を全面的に理解しているわけでもなく、肯定しているわけでもない。太陽と心臓について、そして整体ともつながると思われるところを抜粋して紹介したことをおことわりしておきたい。

(追記)心臓と太陽・インフルエンザ患者激減と新型コロナウイルス についての補足

 アントロポゾフィー医学の公式見解として、「コロナ・パンデミック―いくつかの観点と展望」(PDF)という資料があったので、その中で太陽について述べている箇所を紹介する。このPDFはインターネットで入手できる。

(以下、ブログ用改行あり。( )内は管理者による)

…外的な助けとなるのは、可能な限りの能動的で自発的な運動、太陽への関わりです(ルドルフ・シュタイナーは 1920 年、ビタミンDの発見前に光欠乏の感染症学的な意味を指摘していました)(註)。

 適切な時間、適切な量の太陽光を浴びることは、感染症への防御力を強め、身体における自我の存在(生きている、存在しているという自覚)を促進し、私たちの内的な、ホルモンによって仲介される光リズムを安定させる基盤を形成します。

 私たちに必要なのは不安を取り除くための太陽光への関係だけではなく、いわばノヴァーリスの一連の詩「夜の讃歌」が示すように、夜を、星空を大切にすることでもあります。

 夜の人工照明やモニターなどの光公害が健康に及ぼす影響については、すでに十分に知られるようになりました。

 私たちのリズム系(体の秩序を保っている呼吸器や循環器のリズム)は、太陽とその日中の運動に結びついています。そこからたくさんの数の概日リズムが存在することがわかっています。

 1日のリズムを形成すること、特に目覚めと眠りの生理学的な関係が重要なのです。 短すぎる眠りも長すぎる眠りも病的に作用し、免疫学的機能の制約につながります。

 (註)血液中にビタミンDが多く含まれるほど、心臓病や癌の比率が減る傾向があり、ビタミンDは太陽光を浴びることで生成される。

 しかし、ビタミンDサプリメントを服用しても 心臓病や癌を予防する効果はさほどないと言われ、日本ではビタミンDのサプリメントは推奨されていない。

 なお現在、日光を浴びることそのものに効果があるという研究が英国でされている。

(追記)

1 インフルエンザ以外にも患者が激減した疾患がある

東洋経済onlineの二つの記事より)

喘息…2020年1月~5月の新型コロナ流行期のぜんそく入院患者数は、例年に比べ約半減した。この傾向は、18歳未満の子ども、成人ともに認められた。

呼吸器系疾患(肺炎)…2020年4月~9月、疾患別の入院患者数で見ると、「呼吸器系疾患」特に、「ウイルス性肺炎」と「細菌性肺炎」の入院患者数が、それぞれ前年同期比93.8%、48.1%の大幅減を記録した。

2 抗体について

「最新免疫学から分かってきた新型コロナウイルスの正体」(宮坂昌之・大阪大学名誉教授 Science Portalより)

新型コロナウイルス感染症の場合、軽症の人ほど作る抗体が少なく、重症の人ほど作る抗体の量が多いことが分かっています。

もし作られる抗体が善玉であったなら重症者にはなりません。抗体量が多ければ、軽症者になるはずなのに逆の状況になっています。

(抗体には、善玉抗体=ウイルスの働きを止める抗体(中和抗体)・悪玉=ウイルスの感染を促進し病気を悪くする抗体・役無し=どちらでもない抗体 の三種類がある)

 一方、新型コロナから治った人をみると、善玉抗体ができているのは間違いありません。重症者は抗体量が多いと言いましたが、おそらく善玉抗体以外の、例えば役なしの、あるいは悪玉の抗体もたくさん作られています。それらのバランスがうまくいかないので重症になると考えられます。

 知りたいのは、何が善玉、役なし、悪玉の抗体をそれぞれ作るかということです。非常に大きな個人差があるようですが、どのような人がどのような抗体をどの比率で作るかは、残念ながらまだ分かっていません。

…おそらく私たちの何割かはコロナウイルスに対する免疫をある程度持っているが、それが良いように働くのか悪いように働くかはまだ分からない。従って私たちはこのウイルスに対して注意深く付き合わないといけない――と私は思います。

死者との対話

 12月8日(ジョン・レノンが亡くなった日)前後に、ポール・マッカートニーのインタビューをいくつか読む機会があり、その中に次のような記事があった。

(曲を書いていて)『これ、どうなんだろうなあ』って行き詰まると、部屋の隅にいるジョンに向かって曲を弾いてみるんだよ。するとジョンは『それはないだろ』って言うんだよ。

そこで『これならどうかな?』ってやってみると『そっちの方がまだましだな』って返事が聞こえるんだよ。そんな会話のやりとりをしてるんだ。これは失いたくないものなんだよ

  ちょっと驚いてしまうかもしれないが、数年前、セリーヌ・ディオンも、夫が亡くなった後も、彼と話をしていると告白している。こういう話は、変だと思われるのが恐いから他人に言わないだけで、意外と多くの人にあるもののようだ。

 こうした現象の精神医学的説明は、自分の大切な人(血縁や戸籍上の関係などの意味ではなく、深い結びつきのある人)の死という、大きな喪失体験と強い情動的なショックによって生命活動にストレス負荷がかかると、脳が故人のファントムや声を作り出すことで、ストレ スから生命を守ろうとするためだと言われている。

(そのため、多くの場合、正常化に向かうさようとなり、本人が悩む場合以外、治療は不要とされている)

 実際、ポールはいまだにジョンが殺害されたことについて考えることができず、ジョンと過ごした時間を思い出すことしかできない、これは一種の否定だと思う、と別のインタビューで答えている。

ビートルズが解散したのは二人の不仲のためだと言われているが、解散後も互いに自分の前では悪口を言わせなかったし、亡くなる前に和解したそうだ)

 じつは私も整体の師匠と話をすることがあって、分からないことを教えてもらったりする。例えば先日、健康診断で「心肥大の傾向あり」と言われた、という人の観察をしている時、心臓ではなく肝臓に手が行ってしまう、ということがあった。

 その時、ふっと迷いが生じたのだが、「手を信じろ」という先生の声が聴こえた。外側ではなく、自分の体の中から聴こえる。おとというのともまた異なる。そして、私が手で捉えたことを信じて進めると、体の状態が変わる。そんな感じだ。

 先生との対話が始まったのは、先生が亡くなった直後、私が家で頭がおかしくなりそうになっていた時だ。不意に「ここにおる、大丈夫だ」という先生の声が聴こえてきて、我に返った、というのが最初だ。

 しかし葬儀の後、私は物事にリアリティーが感じられなくなってしまい、未来とも、過去とも切り離されて、自分が宙に浮いているような感じがしていた。

 前回書いたような「死にたい」という思いではなく、死がすぐ近くにあるという気がした。当時、周囲の人からも心的に孤立していて、気力がなく、私は本当に「生命活動が低下している」状態だった。

 その時は心の中の先生の声だけが支えで、何でも先生にどうすればいいのか尋ねていた。

 だから、誰とも共有できないような喪失感と悲しみを経験したことで、脳がつくり出した声だという説も説得力があるが、私個人は、心身の状況は改善した今でも、頻度は減ったが話をすることは変わらない。

 精神医学の説では危機的状況だから(脳が作りだす虚像と)話ができるということになるが、今は心身ともに落ちついた、上虚下実の時のほうがきちんと声が聴こえる(と感じる)。

 だからといって私には何の問題も不安もないなどということは全くないし、本当の心の中だけのことだ。他人の前世も分からない。

 このブログは、「王様の耳はロバの耳」の洞穴のように、私の精神的健康という目的もあるので書いているが、名前を出しては書けないし否定されるのが恐くて、人に話したこともない。

 宗教と科学(医学)の間の問題で、どちらが正しいかという判断は難しいし、スピリチュアル整体みたいな話と混同されるのも怖い。。私のたましいが先生の声で話しているのかもしれない、と思う時もある。

 自分でもまだ結論づけることはできないけれど、ないことにはできないし、したくもない。ポールのように、「失いたくない」と思っている。

 本当のところは、私が死ぬ時まで分からないかもしれないれど、書いてみた。 

(追記)

1980年、亡くなるわずか3日前にジョン・レノンのインタビューが行われた。その最後の言葉。外国に住むと予言した占い師がいたがその通りになったという話から…

時々思うことがある。いや、本当に不思議なのは、僕らは皆夢を実現しているが、常に選択肢がある。でも、前もって決まっている宿命というものはどれほどあるのだろうか? 

いつも分岐点があって、どちらの道も等しく運命付けられているのだろうか?或いは何百という選択肢から選べる可能性もある。

しかし選択できるのはひとつだ。とても不思議だ、と時々感じる。

いいインタビューの締めだった。グッバイ、またね。

 インタビューを行ったジョナサン・コットは、1968年、ローリングストーン誌によるジョン・レノンとの初インタビューも担当した。

「Rolling Stone Japan」2010年12月23日号