アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

頭の疲れと色彩

感受性と体の状況

 私はブログなどを読んでいる時、その人が自分の体のこと(症状とか癖・特徴、感じ方など)について書いていると、つい興味を持ってしまう。それで、先日、あるブログを読んでいたら「眼が赤くなる」ことについての記事があり、全然会ったこともないし整体とも関係のない人なのだが、ちょっと気になっている。

 眼に来る時は、今はアレルギー(花粉症の類)、肝臓の変動も考えられるのだが、その他にかゆいとか痛いとか、かすむとか目やにが出るとかそういう症状は書かれていないのでよく分からない。

 なぜこの人について書いてみようと思ったかと言うと、先月末に読んだ野口晴哉の講義録に「頭が疲れていると緑色に注意が引かれるようになり、緑を見ると休まる」という記述があったからだ。

(これは、体癖論で前後型5種は緑色に快感がある、というのとは違う角度で、その時の体の状況で目に入ってくる色が違うという話。)

 この人は写真家の顔も持っていて、普段の生活で、目に映る風景を切り取ったと思われる写真もしばしばアップしている。

 作品として良い悪いということでは決してなく、あきらかに素人ではない人の写真であり、作品として素敵なものが多いと思う。また、撮影者が撮ろうとしたものと、私が言うことは違うことも大いにあるだろう。

 つまり、私の整体に偏した視点という限定つきで読んでほしいのだが、ここ数か月間、ブログで拝見した範囲の写真には、画面の中に植物相(叢のような)が入っていることが多かった。ある一つの植物に焦点をあてているのではなく、緑のマッスというか、風景のような写真だ。

 写真の中にはいろんな緑色があった。透明感がある緑、水分をふくんで滴り落ちそうな緑、ちょっと夏疲れしたような、秋色がかった緑。私には、この人が「緑という色彩」を撮ろうとしているように思えた。

 そう思っている矢先に、講義録を読んで「これは…!」と思ったのだが、最近になって「眼が赤くなる」と書いているのを読み「この人はやっぱり頭が疲れている」と納得したのだった。

 それ以上のことは分からないのだけれど、写真を撮るにしても、やっぱり対象を選んでいるのだから、体の状況、無意識の要求とひとつであるのは自然なことだ。

 それに、撮る人に要求があるから、印象的な美しい緑を捉えることができるのだし、それを写真で表現できるのが、写真家であるということなのだろう。

 少し前に、自死をした知人の女性写真家のことを書いたが、彼女は自分の写真を見て、ただ美的に鑑賞するのではなく、疑問や違和感、動揺までを感じてほしいと言っていた。

 今思うと、彼女が使った戦前の古い大きなカメラは、昔の日本人があの世から現代の日本を見ている眼のように思える。彼女はそれを写真で表現しようとしていたのかもしれない。

 ちょっと話がそれてしまったが、頭の疲れというのは、全身的な影響が大きいし、対処法もなくマクラにしたのでは申し訳ないので、野口晴哉『整体入門』(156頁)に掲載されている体操を紹介しよう。

 これは細かく言うと頸椎2番を刺激して脳の血行を調整するのだが、親指が筋肉の硬い所に当たるようにすれば、だいたい当たる。うまくいくと、首・頭のみならずみぞおちまで弛む。

頭の疲れをとる体操

1 手指を組んで後頭部に手のひら側を当て、すこしうつむき加減になる。親指を上頸(後頭部のすぐ下)に少し圧を加えるように当てる(押さない)。

2 そこに親指を当てながら、顔を上げ(少し上を向く)、五秒そのまま、その後戻す。これを3、4回繰り返す。指に力を入れなくても、上を向くと自ずと圧がかかる。

3 腹式呼吸をする。(おへその下に手を当てて、ゆっくり静かに息をする)

※頸椎は動きやすく、敏感な処なので、指圧のように押したりしてはいけない。顔を上げる、うつむくという首の動きだけで圧がかかる、弛む、という刺激が加わるのがよい。

 眼の異常感と歯の痛みにも効果あり。風邪をひいた際、眼に異常感がある時は、肝臓が疲れているので、食べる量を減らす。

 風邪でなくても、眼に異常がある時は食べ過ぎ(食の乱れ)に注意する方が良い。

 

最後に、野口先生から一言。

個性の自覚

どんな生活方法も、健康法も、

適うということがなければ効果を齎らすものではない。

一切の養生、衛生の問題は、

自分自身で自分の特徴や欠点を、

体の面でも、心の使い方の面でも、

ハッキリ知っておくということが大切である。

(『風声明語2』野口晴哉

 

集団心理と個の確立

 新型コロナウイルス禍が起きて、いろんな経験をし、学ぶことも多かったが、このさなかに一番考えたのは集団心理(群集心理)の怖さだった。

 これはユングなどの言う「集合的な心(集合的無意識)」とは違い、人は集団になると自分の考えや行動などを深くかえりみることなくいじめや暴力に加担してしまうことがあるが、こういう傾向のことを言う。これは潜在的に同じ潜在感情や志向性を共有する人たちが、共通の場・興奮状態に置かれた時に起こる同調現象のようなものだ。それで行動が全体として均質化していく。

 私は知人にシュタイナーの本をプレゼントしてもらってから、霊学の方面に興味を持ち、グルジェフ(1866-1949)という人を知ったのだが、この人はシュタイナー以上に賛否両論分かれる人で、どちらかというと「あぶない人」と言われる方が多いようだ。

 この人が生きた19世紀の終わりから20世紀の初めは、深層心理学が起こった時期で、第一次大戦や紛争などを通じて、理性に人間の攻撃性や情動をコントロールする力がないことがはっきりした時代だった。

 中世から近代化の過程で、ヨーロッパでも高身長化という体の変化が起こり(昔はあんなに背が高くなかった)、日本でも同様のことが起こったが、これは良い意味のみならず、重心が急激に高くなったことが影響している。

 当時はこれまでの伝統的価値観(宗教性)や身体とのつながりという根を断ち切られ、かつてないほど意識(外界を認識する)を発達させたことで、人々の心身はかなり不安定化し、人間の自然な状態が失われていた。

 それで多くの研究者が集団心理を研究していたようだが、霊学においてもそれが主題となっていた。ユングやシュタイナーも個と全体の問題に対する志向がある。

 グルジェフは、戦争や内乱などの非常時になると表面化する、異常な集団心理、暗示のかかりやすさや自動的に何かをしてしまう傾向に関する研究をした。そして人間が集団催眠に陥ったように判断力を失ってしまうのは「外部からの影響に弱いため」だと考えた。

 そして、多くの人は普段から催眠状態(意識水準が低下した状態)で生活していて、外界からの刺激や影響に機械的に反応していると考えた。自由意思や理性というのは幻想で、暗示にかかったように、個人個人決まったパターンを繰り返しているという。

 この状態から覚醒するために、個々の頭・心・体(思考・感情・運動)に、自発性と調和をもたらすセンターを作る身体技法と哲学をつくり上げた。ことに最晩年は個人的で切実な問題を離れて、思想や理論をやり取りすることはなかったという。

 ただ、グルジェフの思考には当時の時代精神だった「世界は滅亡に向っている」という暗い予感と危機感に充ちていて(現代の日本の気分はこれに近いような気もするが)、違和感を感じるところはある。ここに書いたことは私が拾い読みしたことのまとめで、難解で知られるこの身体技法と哲学をやってみたいとか、そういう気もないけれど、良い悪いとか好き嫌いを超えて、本質をついていると思うところがあった。

 前回、感染症の流行には集団心理的なものが作用しているという野口晴哉の言葉を紹介したが、野口先生は、潜在意識教育の話の中で、人間(特に大人)はいろんな意味での暗示にかかった状態にあって、そこから解放する、自由になることが必要だとよく言う。

 野口整体グルジェフは結びつきがある訳ではなく、無意識、生命にもっと信頼を置いている。でも問題意識としては共通しているところがあるし、集団と「個」の確立という意味でも通じるところがある。

 集団心理的な問題は、家族などの小さな集団でも、大きな組織でも起こりうることで、いじめや職場のストレスなど、個と集団の関係でおこる問題にも関わっている。

集団のなかに置かれると、より自分を見失いやすいタイプの人と、集団心理に抵抗力がある人がいて、さらに集団心理を煽ったり強固にしたりする人もいる。何かおかしいと思いながら抵抗できずに流されてしまう人もいる。野口先生も体癖的な観点からこういう問題を語っている(「家族の体癖」月刊全生など)。

 そういう違いがどこから生じるのかは、はっきりとは言えないし、一定してもいないのだろう。「みんながそう言っている」「普通そうでしょう」と思う傾向がある人の方が、集団心理に抵抗力が弱いとは思うけれど。

 これは判断基準が自分の内側にあるか、外側にあるかの違いで、これには、丹田に自分の存在の中心があるか、ないかも関わっている。

 個人指導の意味を考える上でも、もう少し深めていこうと思う。

 

 

 

 

しつこく新型コロナウイルスについて考える

 

 緊急事態宣言が出ている時より、少し前までの方が事態は良くなかったように思うのだが、新型コロナウイルスの話題はもう飽きてきたと見えて、ニュースなどでも取り上げ方が「またですか」みたいな感じになって来ている。

「なんのこっちゃ…」と思うけれど、以前より冷静に感染症の話ができるようになってきたようにも思うので、新型コロナウイルスについてもう一度考えてみた。

  野口整体創始者野口晴哉師は晩年、「がんの時代が終わったら精神疾患の時代が来る」と言った。これは「身体的な病症を抑え込むと、中枢(脳・脊髄神経)に入っていく」という意味と、「がんの治療法が確立したら、精神疾患という治療法が確立していない病が増える」という意味がある。

『病気の社会史』などで知られる医療史家、故・立川昭二氏は生前、この予言にとても関心を持っていて、立川先生は医大で医師たちから「先生、次はどんな病気が流行るんですか」とよく聞かれるんだ…と言っていた。何でも研究費の予算獲得に大きく関わるそうなのだ。

 これについての詳しい資料があったら見せてほしいと頼まれていたのに、立川先生は私が約束を果たさない内に亡くなってしまった。申し訳ありません。

 それにしても今、近代初頭さながらにパンデミックが起きるとは、立川先生もあの世でさぞや驚いているだろうと思う。私自身、パンデミックというものを実際経験するとは思っていなかったし、本当についこの間まで、感染症の時代は終わった、現代は生活習慣病の時代だと言われていたのだから。

 でもこの生活習慣病が基礎疾患となってCovid-19の経過を悪くしているし、常用薬がある人が増えていること、薬を飲むことが安直になっていることも、感染症の流行や悪化と関係がないとは言えない。

 また、新型コロナウイルスは、自然界の健全な表土の上では長生きできないのに、プラスチックや金属の人工物の上では数日間も生きているという。人工的世界に適応した結果なのだろう。

 私の持っている資料に、昭和40年代の香港インフルエンザ流行時の講義内容があり、野口先生は戦前のスペイン・インフルエンザと戦後のインフルエンザについて、「黄色人種は白人種よりインフルエンザに強いと思う」と述べている。

 新型コロナウイルスでも、東アジア全域で死亡率や発症率が低く、医療制度が遅れている地域もそうでない地域も同様だ。インドも感染者数は多いが、欧米より死亡率が低いという。やはり東洋はインドまでなのか?ファクターXとして注目されているが、どうなのか?

 ただ、イギリスやアメリカなどでは、人種間にそれほど差はないという調査もあり、ヨーロッパやアメリカの方が異常(肥満や基礎疾患などの影響で)なのかもしれない。

 また、スウェーデンにみられるように、ヨーロッパでは、高齢者の死の受け入れ方が、とにかくICUに入れて死なせないようにする、という考え方ではないことも死亡率と関係があるだろう。一番、異常感があるのはアメリカかな…。

 今、気になるのは、野口先生が「スペイン・インフルエンザの経験では、流行が最初に起きた都市部よりも、その後に流行した地方の方がひどい状況だった」、「感染症の拡大と重症化には、集団心理的な要素がかなり関与している」と言っていることだ。

 報道されている地方での感染者(さらには東京から帰省した人にまで)に対する恐怖と不安に満ちた反応をみると、もし流行が地方に拡大したら、混乱は首都圏の比ではないのではないだろうか。さらにもっと言うと、これが重症化する人が増える要因になるかもしれない。

 もともと新型コロナウイルスは、恐ろしいウイルスではないのに、重症化する、死ぬという思い込みや、心理的な混乱が、ウイルスに対する免疫反応にまで影響してしまうことがある。

 また、ウイルスの力だけでパンデミックが起きたりすることはない、ということを忘れてはならないと思う。

新型コロナウイルスは今

 先日、はてなから一年前のブログを回想してみませんか?というメールが来た。ちょうど、シュタイナーの著書を友人にプレゼントしてもらった時の内容で、懐かしく思い出された。

「王様の耳はロバの耳」という童話には、誰にも言えない王様の秘密を洞穴か木の洞の中で言ってすっきりする、という床屋が出てくるが、このブログはそれと同じような目的で始めた。

 師匠の病気について、まして自分の感情などは長いこと誰にも言えないことだったし、何でも話すことができる人(師)を失って、私はブログにこれまで言えなかった本心を書こうと思ったのだった。

 インターネットというのを、集合的無意識の世界になぞらえ、私はそれに話しかけるつもりで、このブログを書き始めた。

 でも、野口整体関連ということもあって、次第に読んでくれる人が出てきて、読んでくれる人の関心を意識した内容も書くようになっている。

 特に今年になって新型コロナウイルスパンデミックが始まってからは、そういう傾向が強まったと思う。あの頃から、外的世界と内的世界がひっくり返ってしまったかのようだ。

 他人との物理的距離を保ち、マスクをするのが習慣化しつつあるが、先の見えない不安、「もう、どうでもいい」という無気力感などは、見えないウイルスのように感染し、個という輪郭がぼやけていっているように思える。

 

 私は今年の夏、どういうわけか二の腕が熱いのが気になっていた。年のせいというわけでもないらしい。それで中心になっている処をさぐってみると、化膿活点が発熱の中心になっている。それも、熱い時に化膿活点を押えて愉気すると、熱が分散されるようなのだ。

 ちなみに化膿活点というのは、野口整体の体の技術を学ぶ時、最初に教わる有名な処で、二の腕外側の真ん中あたりにあるぐりぐりした部分のことを言う。怪我などの化膿時、虫刺されなどの救急操法にも使うが、広く免疫系の調整にも用いられる。

 私はこういう経験が初めてだったので、どういう理由なのかと考えてみると、これはやっぱり新型コロナウイルスが実際に身近にあるということなのだと思う。

 今、アメリカは新型コロナウイルスホットスポットと化しているそうだが、近所には在日米軍の家族が住む居住地区があり、以前よりは少ないが、小さな子どもから大人まで地区外を歩いている。

 仮にアメリカ人がいなくとも、日本のホットスポット・新宿直通の電車が通っている通勤圏内で、実際にはウイルスが身近にないという方が不自然に思える環境なのだ。

 現状の私の意識は、新型コロナウイルスに不安や恐怖をあまり持っていないし、存在を気にすることもない。マスクをしないと店に入れなかったり、人の目が気になったりするので、駅や店に近づくと急いでマスクを取り出すというレベルだ。

 しかし、私の自然免疫は未知のウイルスが身近にあることを知っていて、準備しているのではないだろうか。(ひょっとすると無症状感染しているのかもしれないが。)

 こういう時、体に起きていることを「どう理解するか」が本当に大切で、「身近にウイルスがある」という危険に注意を集めてしまうか、自然免疫が活性化しているということにセンス・オブ・ワンダー的関心を持つかによって、大きく変わって来る。

 まあ、私の腕の熱さがどういうわけなのか、医学的に立証できないし、一般化できないことではある。しかし、この発見?は、新型コロナウイルスより暑さに弱っていた私の受け身な態度を変えてしまった。

 世の中的な基準では、「主観」にすぎないし、日本の感染症対策には何の影響も与えない、ささいなことだ。でも、そこには私の実感があって、その実感が私にとっての意味なのだ。こういう実感が、自分を取り戻す、個に立ち帰る、ということの原点にあるのだと思う。このブログでは、それを大事にしていきたい!と改めて思った。

 ※私は、新型コロナウイルス感染症に関しては、なるべく医学的にも勉強するようにしている。その中で、スウェーデン在住の医師、宮川絢子博士による

新型コロナ「第二波がこない」スウェーデン、現地日本人医師の証言(Forbes JAPAN)

という記事が良い内容だったので、おすすめしたい。

 

 

 

 

親知らずが生えてきた!2

親知らずと現代人

 親知らずが、また動き出した。今度は左上顎。先行した右上顎はまだ半分ぐらいしか生えおらず、左の方の勢いがいい。頸椎2番に焦点があるようだ。でも頭に愉気する方が全体的な経過にはいいように思う。

 例によって「このブログにしては」という数字なのだが、親知らずについて前回書いた記事を読む人が意外といる。それにどういうわけか、私の知る限りでは、野口晴哉先生は親知らずについてあまり言及していない。

 虫歯の話(救急操法もある)はあるのになぜだろう?野口先生の時代(戦前~1970年代前半)は、今ほど親知らずが問題になっていなかったのだろうか。

野口整体を愉しむ 」というブログには、相当広範囲に野口先生の講義内容が紹介されているけれど、親知らずについての資料はなかったように思う。整体的親知らずの経過法を知りたい人が意外といるのだろうか。

(この記事を読んでくれた人で、何か御存知の方は是非ご教示ください。)

 今は「親知らずが横向きになっている」とか、いろんな問題があって、「親知らずの抜歯は修羅場だった」という話をよく聞く。理由は分からないが、下顎の親知らず抜歯は麻酔が効きにくいのだそうで、全身麻酔で行うこともあるという。

 よく顎が小さいとちゃんと生えないなどと言われるが、私の顎は視界も認めるほど小さい方だが、まっすぐ生えている。ちゃんと生えるかどうかは顎関節と骨盤の可動性の問題(顎と骨盤は連動している)で、実際に親知らずが生える時、顎の骨は動くものだ。

 正式には15才臼歯というのだから、本来ならば思春期後期までに生える歯で、骨盤が動くのと一緒に生えるのだろう。下顎の時の方が、骨盤部との関連をつよく感じた。

 前回、右顎の親知らずが生えてきた時、私は「親知らずが生えたり生えなかったりするのはなぜか」をネットで調べてみたのだが、なかなか興味深いので、紹介しよう。

歯科人類学を研究する歯科医師のHPによると、縄文人と言われる南方系モンゴロイド系は、親知らずが四本とも生える人が半数以上、弥生人と言われる中国・朝鮮半島からの渡来人(北方モンゴロイド系)の遺伝子が濃い人は、親知らずの欠損率(四本ともない、または欠損している)人が多いのだという(欠損は歯茎に潜っているのではなく、歯根がないという意味)。

 つまり、現代日本人が形成される過程で、親知らずの欠損率は高くなっていったのだが、戦後、親知らずが生える人が増加傾向にあるのだそうで、なぜこれまでの過程に逆行するような現象が起こっているのか、理由はまだ分からないという。それと同じ時期に変化しているのは高身長化と性成熟の速さ(第二次性徴の早期化)なのだそうだ。

 でも、親知らずがある人が増えても、きちんと生える人は少なくて、修羅場になるケースが多いというのは、あまり良い傾向とは言えない。少なくとも「野性を取り戻している」などとは言えないだろう。

 野口先生は親知らずのことは言っていないけれど、大脳が偏って発達することで体が鈍くなると「体が野蛮化する」という問題は指摘していて、その例として戦後の初潮年齢の早期化を挙げている。「体が野蛮化する」というのは、脳と体の統制が乱れる、体から人間的な特性が失われる、ということだ。

 皮膚感覚が鈍くなる、姿勢の乱れ(姿勢制御の神経系と深層筋の退化や未発達)のもそういう傾向の表れかと思う。

 親知らずの問題は、体の発達のアンバランスと鈍りという、意外と深い問題にかかわっているのだろうか。

 

見ることと、世界とのつながり

ある女性写真家の思い出、これで最後。 

 最近、続けて書いているけれど、どうもこのところ、何年も前に亡くなった女性写真家のことを思い出してしまう。彼女にとって、写真を撮るとはどういうことだったのだろう?

 彼女は生前、いろんな人から「海外で仕事をした方が活躍できる、才能を活かせる」とよく言われたそうだ。しかし、本人は「私は西洋的な個の確立というのができない、自分にはそういう強さがない」と言っていた。

 彼女の育った家は医師の家系で、曽祖父は藩医、祖父は明治時代にドイツに国費留学し軍医をしていたという。父も医師で、戦前に国費留学したそうだ。本当に森 鴎外さながらの家柄で、彼女はお手伝いさんに「様」づけで呼ばれて育った、真のお嬢様だった。

 学生の頃はジャーナリズムにも関心があって、左翼的な学生のグループにも近づいたことがあったが、家に帰ってお手伝いさんに「○○様」と呼ばれた時、「自分にはこの思想は無理だ」と思ったそうだ。 彼女の実家は、戦前は近代という時代の先端を行っていたのに、戦後は旧態依然、前時代的になってしまったのだ。

 こういう「古さ」を引きずっている彼女と、彼女の使う古い戦前のカメラは、どこかつながっているようにも思う。

 母親と姉妹は自分とは全く違うタイプだが、父親は「ほんとは作家になりたかった」というような人だったそうで、小さい時から理解者だったという。彼女が写真を始める時も「やりたいことをやりなさい」と言ってくれたそうだ。

 私が彼女と出会った頃は、もうすでに父上は亡くなったとのことだったが、今思うと、彼女にも意識できない深いところで、父の死が影響していたような気がする。

 それから、彼女が使っていた、あの古い大きなカメラ。あの古いカメラで現代の人や風景を撮っていた。私は正直に言うと、彼女の写真集を最初に見た時、何て寂しい、虚無的な写真かと思った。

 しかし整体の師匠が亡くなった後、自分の見ている世界が彼女の撮った写真に似ていることに気づいた。その頃私は、自分の時間が止まっていて、周りの人と環境とのつながりが感じられなくなっていたのだが、その時に見えた風景が彼女の撮った風景に似ていたのだった。

 当時は、自分もすぐ死ぬような気がしていたのだが、それは私が医師と直に先生の延命措置や治療を断る話をしたこと、そして死のショックとともに、周囲と共有できない感情を内攻させたことが原因だった。

 私の場合は、感情が流れ出し、体が動き出して、泣きたいだけ泣けるようになってからは、もう景色がそういう風には見えることはなくなった。

 でも彼女は、父が死んでから、世界がずっとそういう風に見えていたのではなかったか。彼女はそれを作品世界として表現し、写真は今、ミュージアム・ピースにもなっている。しかし彼女は、今の自分の写真を超えたいと言っていた。

 今、世界と自分との関係性、つながりが見えないという苦しみや、自分の存在に虚無感を感じている人は多く、彼女の写真の中の世界は、そういう人の見ている世界と重なるのかもしれない。

 ただ、私が彼女に出会った当時の、彼女の心と体の状況には、父の死が深く関わっているとしても、彼女の作品世界はそれだけに集約できるものではない。でも、現代的でドライな印象だけではなく、彼女に痛みがあったことも知ってほしいと思い、書いてみた。

 そういえば、もうすぐお盆。亡くなった人のことを思い出す時期なのだろうか。

冷え対策と熟睡のための蒲団乾燥機

機械的?整体生活のすすめ 

 このところ、読んでいるブログに、偶然、知人の女性写真家の名前が出てきたことを書いたが、先日は自身の「冷え性」について書いていた。

 偶然は重なるもので、実はこの女性写真家にも、体の問題として「冷え」があった。彼女は野口整体を始める前、温熱療法というのをやっていたが、それは冷えがきっかけだった。「手がかじかんでシャッターが遅れてしまうぐらいだった」と言っていた。彼女のカメラは戦前の、重箱みたいに大きなカメラだったから、大変だっただろう。

 梅雨や秋口など湿度が高く涼しい日が続いた時などの汗が出にくい時、また暑い中から急に涼しい所に入って、汗が引っ込んでしまう時。また睡眠中やエアコンの風が当たった時(特に背中)に、冷えが入り込む(体温が上げて恒常性を維持することができなくなる)ということはある。こういう時は体も硬くなるものだ。

 しかし、このブログの書き手も、知人の女性写真家も、そういう急性症状的・気温や季節の問題より、頭の緊張が続いている・脳が休まらないことによるものが大きいように思う。

(カメラというのは、眼と脳の機能を特化し、機械化したものと言えるが、体の機能をそうやって延長させていっただけに、撮影するという行為、撮った内容を作品にする行為というのは、脳と神経系に普通以上の負担をかけるのかもしれない。)

 今、冷えの問題というのは深刻化していて、冷え対策「温活」の市場規模は2000億円という。しかし、多くの場合はストレスが絡んでいて、保温・加温だけでは改善が難しく、睡眠の質の低下と一つであることが多い。冷やごはんではあるまいし、やっぱり人間は自ら熱を発し、恒常性を保つのが自然だと思う。

 冷えのための整体法(足湯など)もあり、すでに野口整体関連の本で紹介されているのでそれを当たってほしいとも思うが、どんなことが適うかは体を観ないと何とも言えない。それに、野口整体が焦点を当てているポイントが分からないまま、他の手当て法と同じようなつもりで行ってもあまりうまくいかないことが多い。

 そこで、お勧めしたいのがこちら!と、テレビの通販番組のように私が推すのは蒲団乾燥機の積極的活用だ。これは野口整体に関心がある人、ない人、万人向けに知ってほしいことなので紹介したい。

蒲団と枕を乾かせ

神経の麻痺するを防ぎ

神経の活力を喚起す

(『野口晴哉著作全集第一巻』昭和5年

  これは、野口晴哉が二十歳頃に書いた全生訓の冒頭だが、私はこれを初めて読んだ時、「蒲団を干すのってそんなに大事なのかな」と、あまりしかとは受け止めなかった。

 しかし、私の師匠はこれを実践しており、ベッドだったため、毎日蒲団乾燥機を使っていた。その後、先生から布団乾燥機のお下がりを貰い、私も実践するようになったが、その効果は想像以上のものだった。始めたのが冬だったせいもあるが、本当に眠りが深くなる。

 寝具に湿気があると、呼吸がしにくくなるし、そうなると自ずと神経は鎮まらないものだ。今のように暑い時期でも、毎日、蒲団を乾かすことは大切にしてほしい。なんとかクラスターとか、イオンとかが出るのは好みでよい(どうでもいい)が、温風も普通の送風もできる方がいいかもしれない。

 寝つきが悪い、眠りが浅いという人のみならず、冷え性の人にも、ぜひ眠る前の習慣として、蒲団乾燥機の導入をお勧めする。