アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

発達障害を考える

 最近、「発達障害」という言葉が一般に知られるようになってきたが、最近その発生率は増加傾向にあるといわれている。

 子どもの発達というのは全体が均等に発達するのではなく、身体的には運動系・中枢神経系・皮膚・内臓、心理的にも社会性や認知的能力というように、年齢的に、またその子独自の系統的なピークを持っている。

 だから、その時々に発達の滞りがあれば、それが「発達障害」として残るし、広範に言えばほぼすべての人に、何らかの「発達障害」があると言える。

 また、子どものある時点だけを見て、「発達障害」と断定し、その後変化していく可能性が見えなくなることもあるかと思う。

 子どもはことに変化が大きく、正常と異常の区分が特に難しいとは思うが、一時的に問題があっても乗り超えられれば「正常」で、乗り超えられなければ「障害」、と私は考えている。その乗り超える力に先天的な障害があることが、障害児ということなのだと思う。

 前置きが長くなったが、私の姪(小学生)には発達障害があり、現在、特別支援学級に通っている。私はこの子から多くを学び、心の中に降りていく通路を開くという面では、この子の存在によって、一段「底が抜けた」ように思う。

 お母さんという立場にある人にはやや厳しい内容になるかもしれないが、この子の出生からのことをきれいごと抜きに書いてみたい。また、これは全く個別のケースであって、一般化はしないようにお願いしたい。

 

 姪が嫂のお腹に宿ったのは、私に整体の観察をする眼がぼちぼちできてきた頃のことだった。よい知らせではあったが、その3、4か月前に流産したと聞いていたので、私は「まだ早いのでは」という不安がよぎった。

 当時、40代で乳がんのステージ4という人が師匠の指導に通い始め、私は彼女と親しく話をする間柄になり、彼女は間もなく妊娠したのだった。

 言葉は悪いが、妊娠というのは得体が知れないところがあって、健康だから妊娠するというわけではない。その人の場合、初期に胎児の心音が聴こえなくなっても、母体の骨盤の力がないために流れることもなかった(病院で掻爬した)。

 しかし、本人にとって、その子は最後の希望の光だったので、そのショックは周囲の想像と本人の意識をはるかに超えていて、彼女は混乱し、指導にも来なくなったのだった。そんな辛い出来事の後で、私は余計に不安を感じたのかもしれない。

 しかし、お祝いに家族で集まって食事をすることになって、食事の後、ふと嫂の後ろ姿を見た時、私は愕然とした。嫂と言っても私より若い彼女が、妊娠しているのにも関わらず腰が下がっていたのだった。流産から体(骨盤)が戻っていないのが一目瞭然だった。

 妊娠の経過も思わしくなく、早く生まれた後、ガラス越しに新生児室にいる姪を見た。弱々しい、というのが第一印象で、赤ん坊特有の、全身から発する光のようなものがなかった。あれは赤ん坊が自分に注意を集めようとする気なのだと思うが、それが弱かったのだ。

 私はそれ以前にも、第一子は師匠の個人指導を受けたが、第二子は個人指導を受けずに妊娠・出産した女性が新生児を連れてきた時に、姪が生まれた直後と同じことを感じたことがある。その後、保育園に入り、その子は自閉症であることが分かった。

 その後、一歳になる少し前に姪に再会した時もそれは変わらず、反応が弱かった。そして、私の母からお座りが早くからできるようになった、歯が早くに生えたという話を聞いた。

 整体では歯が早く生えることを注意するけれど、それは一般に思われている以上の意味がある。

 姪は股関節の発達が遅く、二才ぐらいまで歩けなかったが、その他の面でも指摘されることがあり、こども病院で検査を受けることになった。

 そこで分かったことは遺伝子異常と脳圧の問題だった。そして保育園で発達の遅れが指摘され、言葉の訓練なども受けるようになった。

 気づくのが早かった私は、検査を受ける前、兄と電話で姪のことで言い争い、検査の後の対応も部分的でピントがずれているように思え、そのことで自分の両親ともしっくりいかなくなった時がある。

 フェルデンクライスに学び、動きから脳のはたらきを変える発達障害の子どものための身体技法を開発したアナット・バニエルは、発達障害の子を「Special Needs(特別な支援を必要としている子)」と呼ぶ。

 その子が何を必要としているのかを理解することは、すべての子どもに必要なことで、発達の遅れが見えたら一日も早くそれに応えなければならない。

 しかし両親、また両祖父母が心から発達障害を受け入れ、理解するというのは、「言うは易く行うは難し」という言葉そのものだということも、私は身を以て思い知られることになった。

  また、野口先生は、両親、祖父母を含めた潜在意識の問題を説く一方、子どもが生まれることには、個人を超えた宇宙の意志がはたらいているとも言う。私は姪を通じて、それは別々のことではなく、つながっていることなのだと知った。

 長くなったが、すべての子どもとお母さんにとって、妊娠と出産、子育ては幸せな時間であってほしい。整体の智慧がそれに役立つことを願ってやまない。

(補)哺乳類の育児行動は、子どものにおいや動き、反応など、子ども側が発する感覚刺激によって促される面があり、子どもの反応が弱いと育児行動が十分に促されず、母親が仔を食べたり放棄したりすることもある。人間にもそういう面があり、子どもが持っている注意を集める力、また要求がはっきりしていることは、母親のマザーリングを促し、安心感や充足感を母子で共有することにつながる。

 

50代を長くする

ゲゲゲの世界 

 数日前、水木しげるの『古代出雲』(角川書店)という漫画を読んだ。やっぱり期待を裏切らない面白さだった。私は、あまり人に話したことがないけれど、じつは私は子どもの時から水木しげるの漫画が大好きで、霊界への入り口がないかと探したり、空想したりしていた(変な子ども…)。

幻視をリアルに表現したような、濃密な自然界を描いた背景、霊魂や妖怪と人間の関係などに、相当深い影響を受けていると思う。

 水木しげるは娘に「手塚先生の漫画は夢がある。でもお父ちゃんの漫画は夢がない。」と言われ、「バカヤロー、俺は現実を書いているんだ!」と言ったそうで、あの世界観は水木しげるに観えている現実なのだ。

 まあ、水木しげる野口整体はつながりが全くないが、漫画つながりで言うと、以前、野口晴哉先生の、白土三平にはまった小学生の話を月刊全生で読んだことがある。

 ある時、野口先生は、母親から「小学生の息子が漫画ばかり読んで勉強もせず夜更かししている」という相談を受け、その子に「君、漫画ばっかり読んでるの?」と言った。するとその子は「先生、読んだことあるの?漫画は面白いよ、勉強はつまらない」と答えたという。

 そこで野口先生は、その子がはまっている白土三平を読んでみたところ、本当に面白くて、お母さんの読む三文小説よりずっといい内容であることが分かった、という話だ。その後、その子にどういう指導をしたのかは忘れたが、漫画浸りではなくなったようだ。

 あの野口先生が、子どもに反論されて実際に漫画を読んだことにも感心したが、その後、古い月刊全生を見ていたら、おそらく白土三平の御家族の方が『カムイ伝』を寄付したことが載っていて、それにもびっくりした。

 野口先生本人は、15才で道場を開くという天才であった故に、子どもの時間が短くなってしまったことは否めない。現役生活は普通の人よりもずっと長いし、仕事と時間の密度は計り知れないが、60代で亡くなったのは、子どもの時間が短かったこともあるかもしれない。

 野口先生は晩年、日本が長寿社会に入った頃、長く健康を保つためには「50代を長くする」ことが大切だと言っている。

 50代なんて言うと、もう晩年気分で終活のことまで考え始める人がいるが、それは確実に30代とは違う体の変化を実感するからかもしれない。

 でも、一生が長丁場となってきた今は、20歳に成人式があるのと同じように、発達段階として50歳を考える必要があるのではないかと思う。

 それは、実社会に入る20歳の成人式とは違う、もっと精神的な意味の発達、もっと言うと死や霊性といった世界に接近するための、心の準備段階だ。

 私自身の体を考えても、生物的には(つまり♀的には)老いてきたと思うけれど、体の構成物質が変わりつつあるような気がする。物質的な成分でできていた体が、気というか、もっと透過性のある素材に変わっていくような感じだ。それは死に近づくということなのかもしれないが、これから必要な体の変化なのだと思う。

 つまり、いつまでも若い時と同じように運動したり、頭を使ったりするのが元気とか健康なのではなく、違う健康生活がある、それが50代から始まるということではないだろうか。

 水木しげるは、『古代出雲』を書いた理由として、60歳ぐらいから古代人らしい若者が夢にしばしば出てきて、滅ぼされた古代出雲人の無念をわかってほしい、古代出雲のことを描いてくれと頼まれたからだといっている。

 体があって、この世を生きている人間にしか、この世での仕事はなしえないので、体をもたない古代の霊がそれを訴えに来たのだ。

 水木しげるは20代からその気が大いにある人なので、一般化はできないが、40代でやっと売れっ子漫画家になった頃には「妖怪いそがし」に取りつかれて、漫画量産に追われていた忙しい時代もあった。しかし49~51歳で、「妖怪いそがし」と縁を切り、仕事をセーブするようにしたという。

 日本の霊とか魂の世界というのは「思い」の世界で、心の世界が深まっていなければその声は聴こえない。本当に、潜在意識の世界が霊の世界とつながっていて、霊の思いを生きている人間が受け取ることが、死者の霊を慰めるということなのだと思う。

 だから、思いを受け止め、理解することができるようになるというのが、50歳で目指す発達段階なのではないだろうか。そういう心と体を生きている間維持することが、50代からの健康生活に必要なのだと思う。若い時も、年をとっても、自分中心になってしまうのが人間なのだけれど、きっと野口先生は、15歳の時からずっとそうしてきたのだ。私の師匠の修行も、そういうことだった。

 なんだか不思議なことを、とりとめもなく、思わず書いてしまったが、もうすぐ夏だということで?ご勘弁いただきたい。

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妖怪いそがし(水木しげる)人間がこの妖怪に憑依されると、やたらに落ち着きがなくなる。しかし不快な気分ではなく、忙しく動き回ることで、なぜか安心感に浸ることができ、逆におとなしくしていると、 何か悪さをしているような気持ちになってしまう。

 

子どものつぶやき

 前回「おっぱいとおへそ」を書いたのは、窓を開けたら、偶然、小学生の男の子の「あー、おれ、保育園戻りてえよ。」という大きなつぶやきを聴いたのがきっかけだった。

 思わず笑ってしまったが、自分が書いたおっぱいとおへその愉気の文章をふと思い返し、人間はまずおへそから分離し、その次は離乳して、個体化していくんだなと思った。それで、あれを書いたのだった。

 でも、彼の「あー、おれ、保育園戻りてえよ。」というつぶやき(tweetっていうのかな?)には、どんな理由があったのだろうか。

 過去に戻りたいというのは、今、何か不適応な状況がある、ということなのだろうが、2020年に子ども・思春期時代の只中にある人は、かつてない体験を、大人の判断でいやおうなしにさせられてしまった。

 外出自粛期間中、中高生が一人でランニングしているのをよく見かけた。最初は、近所のスポーツ強豪校の男子生徒だと思ったが、そういう子だけではなく、女の子たちまでも走っていた。思春期の子にとって、走るというのは、抑圧から自分を解放するための特別な意味があるのだろう。みんなの思春期エネルギーが、切なくもいとおしかった。

 日本の小児科学会は、感染抑止のための長期休校に反対表明を出したという。最初の彼のつぶやきが新型コロナウイルス絡みではないといいなあ。

 

おっぱいとおへそ

乳房とお臍の愉気

 最近、乳房とお臍の愉気についての文章をこのブログとは別のところで書いた。乳房の愉気はもちろん女性向けで、授乳期に乳腺が痛む時に行われるものだが、普段からこの乳房の愉気を行うことをお勧めする…という内容。

 女性にとっての乳房(解剖学的に、読みはにゅうぼうで)というのは、子どもの頃のある日突然、自分のコントロール外で大きくなりはじめ、後々まで大きいだの小さいだの、同性、異性両方からいろんな価値評価を下されるという微妙な部分だ。そういう意味では男性の…に共通したところがあるような気がするが、この辺にしておこう。

授乳にしても子どもが飲むのであって、自分が飲むわけではないし、体の一部としては、わりと客観的というか、対象化された存在として感じることも多いのではないかと思う。

 著名なハリウッド女優が、ゲノム解析の結果、乳がんになる可能性が高いということで、がんになる前に乳房切除し再建手術をしたというニュースを読んだことがあるが、そういう感覚の延長線上にあるのかもしれない。私には想像するしかない感覚ではあるが。

 ただ、女性特有の臓器というのは、切らなくてもいい場合であっても切除を勧められる傾向があるのは気になるし、多くの女性がそういうことに受け身であるのはさらに気になる。

以前、個人指導に来た軽度の卵巣脳腫がある女性が、医師から「もう必要ない臓器だから」と切除を勧められたと落ち込んでいた。彼女は閉経しているけれど、「必要ない臓器」は言いすぎだと思う。

 やはり卵巣嚢腫が見つかった他の女性は、夫に「医師から、もう必要ないからと切除を勧められた」と言ったら、夫が激怒し、医師に「お前の○○も使わないんなら取っちまえ!」と言い返した…という話を聞いたことがあるが、これは感情的な問題だけではなくて、医療的にはその方ががん化の可能性が少ないとしても、臓器として揃っていること、開腹しないことは健康に生きる上で大きな相違につながるのだ。

 話はそれたが、乳房というのは、月経や排卵時、また感情的な抑圧があって胸が硬くなった時、痛んだり張ったりと緊張と弛緩のリズムが明瞭に表れるところでもある。

 見られるものとして対象化されやすい乳房ではあるが、自分で触れて状態を確かめることは、乳がんという問題とは別に、独立した大人としての身体意識、体との関係性を育てる上で大切なことだと思う。

また、この愉気によって胸椎部が広範囲に弛むので、やってみてほしい。

 それからお臍だが、これはかつて命綱であるへその緒があったところだ。お臍の愉気は、母体から分離してまだ日が浅い、赤ちゃんや子どもの病症経過を手伝う時に行う愉気法として知られている。

野口先生は赤ちゃんの活元運動誘導にも勧めていて、私も眠っている二歳ちかくの子(やや大きい赤ちゃん)にやってみたことがある。

 その時、眠りが浅かったこともあり、その子は寝たまま活発に活元運動をして、治まったらすーっと呼吸が深くなり、熟睡に入っていった。最初に手が行って、異常感があったのは肝臓のある位置だったが、活元運動はお臍がいいようだ。

 大人にとっても、お臍は内臓の状態を表現し、お臍の愉気でぎっくり腰が良くなることもある。大人には鳩尾の愉気が勧められることが多いように思うが、私は「自分の中のこどもに手を当てる」という意味も含め、お臍の愉気も併せて勧めたい。でも、大人の活元運動の誘導は、頭の愉気の方がいいかもしれない。

 人間は、面倒を見てもらうよりほかない状態で生まれてきて、ほかの動物より独立するのに時間がかかるし、脳と体、全体がバランスよく、滞りなく発達するのも難しいし、大人とはどういうことかの定義も、時代によって変化する。

 でも、自分で自分の感情を鎮めて落ちつくことができること(対人関係のためというより健康を保つために)、自分の体のめんどうを自分で見ることができること、は基本要件と言える。それから、闘い、行動する勇気を持つこと、自分と違う他者の存在を受け入れることかな。しかし、最初の二つができない人のなんと多いことだろう。

 自分に対する愉気はそのための修行であり、全体的な成長から取り残された発達の滞りを、成長させていくこともできる。

 愉気法と言うと、人にやってあげたいという人が多いが、その前に自分の心と体に手を当ててみてほしい。

 今回、ちょっとオトナ向けだったかな…。

補足

 乳房の愉気は、右側は左手、左側は右手で脇から少し持ち上げるようにすると良い。

「理解されたい」という思い、表現、そして「対話の要求」

対話の要求

 先日、やり取りをするようになった編集者の人に「活元運動の動画を見せてほしい」と言われ、えーっ!と思ったが、私は思い切って自分の活元運動を撮ってみることにした。

 それで誰かにカメラを借りようと思ったら、なんと動画の撮れる一眼レフカメラをただで貰うという運びになって、もうやるしかないと思い、見てもらうことになった。

 最近、YOU TUBEなどでも活元運動の動画をupしている人がいるが、私はやったことのない一般の人に、「活元運動はこういうものだ」という固定観念を植え付けるだけで、良いと思ったことはない。

 石原慎太郎氏は活元運動の実践者だが、「夫婦の間でも見せるものではない」と自著で言っていて、私も活元会や個人指導という場以外では、そういう感覚の方がまともではないかと思っていた。だから私が活元運動を自撮りして人に見せるなんて青天の霹靂なのだ。

 そして、簡単にメールで説明をつけて、動画を見てもらったのだが、この説明が意外なほど反応がよく、なるほどー!と言ってくれた。

 今、温めている企画のたまごがあって、それが実現するかどうかはまだ分からないのだが、私は「理解された」ことがひどく感慨深かった。

 活元運動というと、実践している人であっても、一般に「理解されない」と思う人が多いのではないかと思う。実際、野口整体に関心を持つ人であっても、活元運動がハードルになって深入りしない人も多い。

 私は普段から、「野口整体をやる人とやらない人の違いとはどういう所にあるのだろう」と思うことが多かったが、ことに新型コロナウイルスパンデミックがあってから、それが溝というか見えない壁があるかのように感じるようになっていた。

 それが、「理解された」ことで、一気に霧が晴れたような気持になったのだった。

 

 そんなことがあった後、、ジョン・レノンのソロアルバムを聴いていたら、昔から好きな二曲(Isolation・Real Love)の中に「I don’t expect you to understand(理解されることは期待していない)」という同じ言葉が入っていることに、今頃になって気づいた。

 これがジョン・レノンのよく言った言葉なのかどうかは分からない。でも、「理解されたい」という気持ちがあるから、このように言うのだろう。ジョン・レノンでもこういう気持ちがあったんだな…とつくづく思うとともに、表現の原動力というのはこういうものなのかもしれない、と思った。

 他者に理解されたい、と同時に、自分でもとらえきれない自分を理解したい、という気持ちの両方があるのだろう。私がこんな私的なブログを書いているのも、きっとそういう気持ちがあるからで、ことに私はそういう要求が強いのではないかと思う。だから理解されないということが、ごく小さい時から不満だった。

 体癖で言うと、開閉型9種というのはそういう感受性が強いと言われる(ジョン・レノンは違うと思うが、成育歴によってはそうなる)。野口先生も、もちろん両親などには理解されなかっただろうし、私の整体の師匠もそうだった。私にもこの困った体癖があって、理解されないことに孤立を感じるし、愛するということは理解することなのだと思っている。でもそれは、体癖以前にある、人間の要求でもある。

 私の整体の師匠は、ことに「自分は理解されない」という思いの強い人で、実際、整体協会の中でもそうだったようだ。整体指導者になる4段位の試験でも、まだ若かったこともあり、野口先生と臼井栄子先生だけが認めてくれたとのことだった。

 野口先生が亡くなった後は一人で自分の個人指導を深めていって、それを本に書いたのだが、先生は「自分が変わったのは思ってもみないほど多くの人に理解されたからだった」と言っていた。

「理解されたい」という気持ち、「理解されない」ことに対する不満。それは、人間には「対話の要求」があるからだ、と野口先生は言った。注意の要求というのもあるが、対話の要求はもう少し人間ならではの要求ではないだろうか。

 自分が心から大切だと思っているものに理解が得られるということは、本当に、自分を変え、世界を変えるぐらいの力があることなんだな…とつくづく思った。

 

自分が変われば世界は変わる

自分が変われば世界は変わる

人間は楽々悠々生きていることが自然だ。

むずかしいことを敢えてやりたくなり、苦しいことを敢えて耐える時は、そのことをその要求するが如く行なえ。苦しいこと、むずかしいことに取り組んでいる中にも、快があることを見出すに相違ない。

いつどんな時に於ても、楽々悠々息していることが、人間の自然というものだ。

 

苦しんでいることと、楽しんでいることは違う。

だから、苦しいことを楽しむなんて無理だという人がある。

しかし、雪の山道を重荷を負うて登ることは苦しいが、その雪の山道を楽しんで登る人もある。

その人々は重いスキーの道具を軽々と肩にしてゆく。

だから苦しい楽しいは心にある。

 

働かされることは辛いが、働いていることは楽しい。

だから働かされているつもりにならないで、自発的に働くことが肝腎である。

冷たい水でも、浴びせられれば風邪をひくが、自発的に浴びれば風邪をひかない。

めしでも食えなければ餓死するが、食わなければ断食して、丈夫になる。

 

まず自分から動くことだ。自分から出発することだ。

しかしその意欲も、背骨が弱いと生じない。

脊髄へ息を通すと自発的に動きだし、世界は為に一新する。

この世にどんなことが起ころうと、どんな時にもいつも楽々悠々息しつづけよう。

そしてこの心ができた瞬間から、小鳥は楽しくさえずり、花は嬉しそうに咲き、風は爽やかに吹きすぎる。

雪は白く、空は蒼い。

黒い雲のむこうはいつも蒼い。

 

世界が変わったのではない。自分が変わったのである。

自分が変われば世界は変わる。

自分の世界の中心はあく迄も自分であり、自分以外の誰もが動かせないものなのだ。

自分がこの心を持ちつづける限り、この世はいささかも変わらない。

なんと楽しいことではないか。

自分の欲する方向に心を向けさえすれば、欲する如く移り変わる。

人生は素晴らしい。いつも新鮮だ。いつも活き活きしている。

大きな息をしよう。背骨を伸ばそう。

 

野口晴哉

『風声明語』(全生社)より

免疫系の自然と、病症の経過ー新型コロナウイルスを通して学んだこと

免疫系の自然と病症の経過

 最近、ちょっと書いては捨て…ということばかりやっていたのだが、本ブログの「感染症と時代―新型コロナウイルスの意味すること」と一連の新型コロナウイルスつながりの記事を読む人が意外と多くなっていることに気づいた。

 多いと言っても「バズった」などという数字では全くなく、このブログとしてはという意味なのだが、今のように人間という種と世界全体が病んでいるかのような時には、なぜ、今、この時にこのような事態が起きたのか、それは自分にとってどんな意味があるのか、という問いがなぜか湧いてくる。

 そして理解することで、自分の置かれている状況に主体的にコミットし、適応していこうとするのが、人間という生き物なのだろう。

 今、covid-19は無症状感染者が現在分かっている感染者数よりもはるかに多いこと、劇症化する場合は、ウイルスの害毒というより、免疫系の過剰反応によることが多いということがわかってきている。様々な理由で免疫系が正常性を失っている人が多いことが、問題を大きく、複雑にしているのだろう。

 私はこれから健康を考える上で、野口整体を伝えていく上で、「病症を経過する」ことを伝えていくのが、最も大切なだと痛感している。野口先生が晩年尽力したのも病症についての正しい教育で、私の師も「病症の経過は野口整体の最も革新的なところで、他のどこにもない」と言っていたが、この新型コロナウイルス騒動で、あらためてそれを再認識することになった。

 それで、免疫系の勉強をしていたのだが、熊本大学の免疫学教室のHPでちょっと驚くようなことが書かれていた。それは「麻疹ウイルスの感染後に、がん(白血病など)の病態が回復したという報告がある」というものだ。

 私の師匠は50代の時、あることで心の打撲を負い、仙椎四番の左に穴が開いた様になって、それまでのように腰の力が使えなくなってしまった。

 頭の緊張が弛みにくいこと、この弛みのために下痢が必要な傾向は若い時からあったようだが、その後もずっと仙椎四番の状態は変わらず、この打撲で潰瘍性大腸炎のような状態になり、綱渡りのようなバランスをとっていたのだと思う。打撲の後、50代でがんになっても不思議はなかった。

 そのため、先生は自分の状態を指導ができるレベルに保つことに苦心していて、そういう中で著書を出し、新しい人生が始まった時、麻疹にかかった。来ていた子どもから感染したそうだ。

 これは私の想像だが、麻疹にかかった時、これで一度は命を救われたのではないかと思う。本を出してから自分は大きく変わったと言っていたが、無意識下での大きな変動が心にも影響を与えたのではないだろうか。

 しかし、がんという状態をつくり、命取りになったのもこの問題だった。その後、ままた絶望するほどのショックがあり、私が見るようになったころは、仙椎四番左の状況が悪化し、症状も非常に激しくなって、常態化するようになっていたのだった。

 また、野口整体では捻れ型体癖のある人だけの病気と観ている帯状疱疹のウイルスは常在菌で、ストレスなどで免疫バランスが崩れた時、発症する。

 私は以前、NHKのZeroという科学番組で、帯状疱疹ヘルペスウイルスが出す物質が悪性脳腫瘍の増殖を抑えるという研究を見たことがある。帯状疱疹はきちんと経過すれば二度とかからないが、捻れ型を一度だけ悪性腫瘍から命を守ってくれる「神の見えざる手」なのかもしれない。

 その他、丸山ワクチンでも有名な結核菌と癌との関係(これは野口先生がよく言っているし、今は膀胱がんにBCGを使う)、インフルエンザウイルスと白血病、水痘とリンパ腫などの報告があるが、どんなウイルスにどんな応答があるかは多様であることが多いそうだ。

 免疫系というのは「自己と非自己」を分別する働きだと言われるが、非自己を徹底的に排除するだけではなく、ある程度の寛容性を持っている。

 そして口、鼻、胃、小腸・大腸、皮膚などに常在菌が細菌叢をつくっていて、体内で細菌やウイルスとの共生関係というバランスが取れた状態が健康、自然な状態なのであり、細菌叢内のバランスの崩れが疾患を起こすこともあるという。

 この他、腰椎5番と免疫系など整体にとって興味深い研究成果もあるのだが、ともかく今、新型コロナウイルスの完全制圧は不可能というのが現実で、これから先、新たなウイルスが登場する可能性は無限大なのだ。

 ウイルスというのが自然の一部なのだとしたら、東日本大震災の時、被災者の自然と対立しない、共生的な伝統的自然観と、自然を受容する態度を世界が称賛したことを思い出して、付き合っていく必要があると思う。

 しかし、これまで体を整える習慣も、体の変動にどう対処するかという腹をくくる経験も無い人に、今、体も見ないで「薬を飲むな」などと言うことはできない。不安になれば状態は悪化する。基礎疾患があって、常用する薬があればなおさらだ。

 だからこそ必要なのが、普段から「病症を経過する」積み重ねを通じ、免疫系の能力を高め、信頼できる状態を保つ=体の自然と弾力を保ち、整えることなのだ。私はこれが、やがて訪れる死に対する態度を育てる教育ともなると確信している。

※病症を経過する

 症状が起きた時、それを薬などですぐに排除しようとしたり、病原菌(ウイルス)などを即やっつけようとしたりせずに、体のリアクションとしての自律的な全過程を全うすること。こうして、体全体の機能が正常性を保つようにし、過敏(過剰反応)・鈍り(無抵抗・無反応)が正される。

 野口整体の個人指導では、経過が可能な状態であるかどうかを見きわめ、経過ができるように体を整えることを目的としている。

 野口晴哉『風邪の効用』では、風邪の症状によって弛むことができない状態が弛み、心身が弾力を取り戻し刷新していくことの意味が説かれている。

※追記

 Wired.jpに、

「普通の風邪」による免疫が新型コロナウイルスを撃退する? 新たな研究結果が意味すること 

という記事が掲載された。普段の風邪というものを知るためにも読んでみてほしい。

そして、免疫系は経験を通じて発達するものであることも併せて知ってほしい。

 新型コロナウイルス(正式名称は「SARS-CoV-2」)に感染したことのない人たちでも、このウイルスに反応する免疫細胞をすでに持っている可能性がある──。そんな研究結果が、このほど明らかになった。過去に風邪の原因となるコロナウイルスに感染していたことで、新型コロナウイルスに対しても「交差反応」する免疫がつくられたと考えられる例が、2つの研究グループから発表されたのである。