アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

新型コロナ感染症を経過する

 久々にブログを書く気になった。人のを読むのもいいけれど、やっぱり書かないでいるというのはつまらない。

 実は私、先日ついに新型コロナウイルス感染症なるものを発症してしまった。ここまで逃げ切ってきたのに…。初めてのことである。

 私の場合は最初に来たなと思った時に少し発熱し、体のだるさ、腰から下の重だるさが強くて、咳が出始めて食欲がなくなり、何となく口の中がいつも苦いような感じで、目の奥の痛みが少し、心臓のあたりが痛むこともあった。

 強い症状は二日ほどで、4、5日で八分通り回復したのだが、だるさと食欲のなさ、喉の違和感がしばらく続き、抜けきるまでに二週間ほどかかってしまった。

 私の感じではやはり脾臓(漢方で言うところの脾という系統)に影響していたようである。操法としては頸椎二番、呼吸活点もポイントだった。

 私の場合、大きな変動は月経と同時期に起こることが多く、そういう意味ではこれまでと変わらない経過をたどり服薬無しで経過することができた。今更ではあるが、やはり実地に自分の体で確認できて良かったと思う。

 以前に指導した人の中にも私と似た症状の人がいて、「やっぱりあれはコロナだったんだな」と思ったのだが、あの時はなぜか発症しなかった。

 やはりその時の体の状態にもよるのだろう。もしかしたら必要性があったのか?でも慣れないことをしていた期間が終わる時で、弛みと疲労が出て来ていたのも事実である。

 それからちょっとあけすけな話になるが、ちょうど症状が出て三日目に月経が始まって、月経三日目に出血がかなり増えた(しかし通常通り終了)。

 原因ははっきりとは分からないが、月経の変化は一定数感じた人がいるようである。脾臓は血液と深い関係があり、そういうことが関係しているのかもしれない。むしろ血液に対する影響が本質であるような気もする。

 まだしばらくコロナウイルスとの付き合いは続きそうなので、参考にしてほしい。

 そしてコロナ経過の後、個人指導をしたのだが、数回の指導を経てついに活元運動(個人指導の中での活元運動で、意識運動ではできない深部のストレッチ的動きが出る)が出たのだった。

 その人も長い徒歩旅行から帰ってきたところで、内的な変化を感じている良いタイミングだったことも大きい。しかし病症経過後というのはやはり何かいい流れが起きることが多く、不思議なものである。

 本当に活元運動が出てくると、自我というものの力のなさ、小ささを感じるようになる人が多いが、今回指導を受けた人もそのように言った。ユングも無意識の広大さと力を知るにつれ、むしろなぜ自我があるのかを不思議に思うようになった、と言っている。

 しかし自我がなければ無意識を意識化すること、発見すること、言語化すること、他者と共有すること、表現すること、できないことがたくさんあるのだ。

 今回、私はある統合失調症の患者に接したことからコロナ感染したのだが、統合失調症の特徴として自我障害というものがある。

 自我というのは人間の身体で言うと皮膚のようなもので、内界と外界を分ける機能と同時に、外界を認識する機能がある(自我の基盤として皮膚感覚を挙げる心理学者もいる)。この自我の機能が弱まり、障害されるのだ。

 またシュタイナーは心臓は自我の座であり、血液は自我の道具であると言う。話がばらばらになっているが、身の回りで最近起きた出来事に共通するワードとして自我があり、自我のあり方を大きく変化させる必要に迫られているような気がしている。

 外界を知覚し、それに応答し行動するためだけの自我ではなく、内界を意識化し、内なる要求と外界の調整役、外界に働きかける主体、外界を感受し心に受け入れる主体としての自我に、である。

 野口晴哉は、「人間の感受性の奥には心がある」と言った。見る、聴く、触る、といった感覚は心の窓であり、同時に心が目を止めるもの、耳に入るものを選んでいる。

 たとえば写真というのは自分が見たものを他人と共有するためにある機械と言えると思うが、対象は同じでも撮る写真は違うように、まず心が焦点を当てるのだ。

 この心というのは、たましいと言ってもよいかもしれない。また、シャッターを押す「時」というものがある。その瞬間はその人だけの時であり、カイロスの時間と言っても良いかもしれない。

 何だかいろいろ分かりにくいことをいっぺんに書いてしまったが、やっぱり明瞭な意識、澄んだ意識を保つことが、これからの世界を生きるための自我には必要である。とりあえずもうちょっとブログを書いて、自分の中を整理することにしよう…。