アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

「体」と「動き」が表現する個性ー整体のまなざし

 私は学生時代、クラブで陶芸をやっていたのだが、当時仲の良かった女友だちの裸体のトルソー(上体)を陶土で作ったことがある。

 小さい試作で頭はなく、お尻の上あたりまでの像だったが、友だちに「自分の体だと分かるし、恥ずかしいから大きいのを造るのは止めて!」と言われた。

 残念だったけれど、ぽっちゃり型の彼女の特徴をよく捉えていて、それなりによく出来ていたと思う(だから怒られたのだが)。

 その陶芸クラブは、はまってプロの陶芸家になった人が何人もいて、ただのクラブなのに入ると人生が狂うと言われていた。顧問の先生は器を作る人ではなく、陶土でオブジェを造る人で、当時、私たちに「造形をやるなら、自分の素材を早く見つけろ」という話をしてくれたことがある。

 その時、先生は「自分の造形力が湧いてくるマテリアル」という意味で「自分の素材」と言ったのだが、当時から私は陶土より人間の体の方に興味があったのだと思う。

 顔よりも体に注意が行ってしまうし(男女問わず)、もしかすると自分はエッチなのかなと思いつつ、器のかたちも体の線をイメージすることが多かった。

 美的なプロポーションというよりも、体の形の中に「生きものらしさ」、生きているという感じを見ていて、生き物ではない陶土で作っても、フォルムによって生き物っぽく見えてしまうのが面白かったのだ。だから私の作るものは生き物っぽくて、「動きそう」とか、「何となくエロい」などと言われることがあった。

 そういう関心の持ち方は、野口整体の体の観察にもつながっていたと思うが、整体を始めてから、昔造ったトルソーは、形を捉えていただけだったなと思った。

 ある姿勢の中で、部分的に力が入っているとか抜けているというところや、動きの中にある一瞬を捉えていたわけではなかった。芸術家というのはそこを捉え、生命を表現する人のことを言うのだろう。

 形の中にも生き物らしさはあるが、その個性を表現するのはやはり「動き」で、動きを観ることは、野口整体の観察の特徴でもある。

 これも学生時代の話だが、ある時ゼミで、先生に自分の出身地を言う機会があったのだが、私が○○県です(書きたいのだが、いい話ではないので伏字)、と出身を言ったら「やっぱり!思った通りだ!」と言われたことがある。

 先生は私が切符を買って改札を通る様子を観察して、それが判ったと言った。先生の研究?によると、奥さんが私と同郷で、奥さんは電車に乗る時、何となく動きが「トロい」のだと言う。また、人込みの中での歩き方にも特徴があって、本当にマイペースで「流れに乗る」ということがない、と言った。

 それで先生は「土地的なものか?」と思い、他の同郷人を観察したところ、同じようだったと言う(先生は北関東出身)。こうして先生は、「一緒に電車に乗れば、百発百中に近い確率で判別できるようになった」そうだ。

 ちなみに奥さんは編集者でキャリアウーマンだが、こういう習性は昔も今も変わらない上、本人はあまり気づいていないとのことだった。

 その時も驚いたのだが、神奈川県出身の友達に聞いてみたら「分かる!」という返事で、私はさらにショックだった…。でもそういう傾向はたしかにあるような気がする。

 これは整体の観点からも興味深い研究なのだが、こんな風に、動きの中には本人の意識していない独特さがあって、観察力が高まると、その人の内面的なことも観えてくる。

 私の師匠は「物まねをするとその人のことが分かる」と言ったが、確かにその人が意図せずにとっている姿勢やしぐさを真似してみると、その人の気持ちが分かるものだ。

 やっぱり、体というのは興味が尽きない。私にとっての「自分の素材」は、「人間の体」だったのだろう。