アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

土の性・風の性

風土という言葉があります

動くものと動かないもの

風と土

人にも風の性と土の性がある

風は遠くから理想を含んでやってくるもの

土はそこにあった生命を生み出して育むもの

君、風性の人ならば、土を求めて吹く風になれ

君、土性の人ならば風を呼びこむ土になれ

  これは、元信州大学教授だった玉井袈裟夫の「風土舎創立宣言」という詩の抜粋である。とても有名な詩だが、知ったのはごく最近だ。

 私が初めて土の性という言葉を知ったのは、山田洋次が編集したエッセイのアンソロジーの中だった。

 筆者が思い出せないけれど、たしか「土の性」の人が発する言葉に傷つくというような、土の性に対して否定的な内容だった。

 だから、この詩が「土の性」の初出ではなく、こういう言葉がもともとあるのだろうけれど、この詩を読んで、改めて土の性・風の性について考えてみた。

 野口晴哉は、人間には物に関心が向く人と、心に関心が向く人がいて、小さい時からその傾向ははっきりあるという。

 そして「物に反応する傾向」の例として、自身の子どもが4歳位の時、「ゲーリー・クーパーってかっこいい」と言うので、「どういうところが?」と聞いたら「帽子だよ」と言った…という話をする。野口晴哉はその時、「クーパーという人の良さ」ではなく、「帽子」であることに非常にびっくりしたそうだ。

 これは体癖とはまた違う観点のことで、職業や意識的な態度などとも違う感受性のあり方の問題ではあるが、重要な人間観としてたびたび言及している。

 また、ユングも「気質の問題に関してどうしても言っておかなければならないこと」として「本質的に精神的な構えの人間と本質的に唯物論的な構えの人間」とが存在している、と言う。(ユング心理療法論』)

 こうしてみると、玉井袈裟夫の言う土の性(現実に根を張る)と風の性(理想を求める)というものを、ユング野口晴哉が言うように物と心に則して考えてみることもできるかと思う。

 この土の性・風の性というのは、さまざまな「分かり合えなさ」の背景にあって、自分は本質的にどっちなのかを知っておくのも重要である。

 私はどちらかというと風の性だと思うが、昔は自分の風的な面を「非現実的」だとか否定的に見ていた面があって、土の性にこだわってしまったところがあったような気がする。

 そして、思い切って言うと、野口整体らしさというのは、風の性である野口晴哉という人が、体を研究したところに由来しているのではないだろうかと思っている。

 土の性・風の性という基本傾向はあるけれど、一人の人間の中にはその両面がある。風の性の人は自身の土性(体のはたらき)を、土の性の人は自身の風性(頭のはたらき)を見出して、自分がどれくらいそれに動かされているかを知ると、お互いもうちょっと理解が進むのではないだろうか。