アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

活元運動のための体操 再開  

 

 昨日、長く通っている人が個人指導に来たので、私は「活元運動の前にする体操」をもう一度教えてみることにした。

 この体操は、前屈みで鍬を持ち、畑を耕すおばあちゃんが、うーんと腰を伸ばして休息する時の姿をヒントに考えたものだ(何て単純素朴なんだろう)。

 だから立姿が最初の形なのだが、今回はまず坐姿で、頸椎、胸椎と徐々に力を抜きながら体を後ろにそらせ、腰椎三番に体重を乗せるようにしていった。うまくいくと仙椎部まで降ろせるが、この人は腰椎三番までだった。

 でもずっと以前に教えた時には、最初の頸椎が硬くて後ろにそらせることができなかったのに、今回、背骨がしなやかになっているのが分かって嬉しかった。生理的湾曲の曲線も自然に流れるようになることが確認できた。これは以前、分からなかったことだ。

脊椎の生理的湾曲の線は背骨の弾力を表わしている(と、私は思う)。これは整体の先生は同意してくれたが、野口先生が生理的湾曲について述べている資料というのはまだ見たことがない。探してみようかな。

 立姿でもやってもらった。力を抜きながら体をそらせ、膝を曲げ下体で体が倒れないようにしっかり支えるようにする。この方が体重がぐっと腰椎三番に乗って、下体に力が入るのが分かるという。ただ、以前の経験から、背後の身体感覚がない人や下体で体を支えられない人、不安が強い人は、立姿で後ろに体をそらせるのを怖がることがあるので、気をつけようと思う。

 今回の反省点としては、私が手で触れて介助する部分がかなり多くなってしまったことだ。もうちょっと言葉で感覚と動きをリードしていけるようにならないと、人数が増えた時難しいと思う。私はもともと「さわり魔」で、手で触れるのが好きなため、すぐ体に触って教える方に行きがちなので、これは気をつけよう(整体の先生によると、手で触ってものを捉えようとするのは体癖習性なのだそうだ)。

 そして、次の指導まで自分でもこの運動を続けてもらうことにした。活元運動に対する効果は次回分かるかもしれない。

 呼吸と骨盤の動き(開閉と前後)の体操は、全身呼吸を教えるのにはいいのだけれど、活元運動の前に行なうことでの効果は、もうちょっと自分で研究する必要があると思う。また、ある人に「なんかHっぽい」と言われたことがあるので、ほかの人にも要確認(その人個人の問題に違いない)。

 うーん、書いてみるとなんだかちょっと馬鹿っぽくて、平均化体操の先生に見せるのは無理かな・・・。でも何とか、自分が使えるものにはしたい。

腰椎三番の心理

②私が体操を考えていた頃

 こんなことから、私は活元運動の会が「もうちょっと何とかならないかな」という思いを以前から持っていた。それには身体感覚に注意を集めて、自分の体の状態を把握する内観的(体の中に降りていく瞑想的)な要素を教えていくことが必要なのではないかと思った。その中でも腰椎を捉える感覚は基本となる。

 それに今、脊椎の生理的湾曲※が少ない人、また腰椎の身体感覚がない人が増えている。骨盤を起こすことがない、または腰の感覚がない人が多いし、邪気の吐出が難しいくらいに呼吸が浅かったり、重心も高く、頭が過敏になりがちだ。体重を足腰に乗せ支えることを知らない人がいるし、正坐ができても腰に上体を据えられない人が多い。

 これは一言でいえば身体的に発達していないということなのだが、整体を教える土壌である身体が、野口先生が生きていた時とはこのように変わってきているのだ。

 でも、感じられなければ自覚のしようがない。それで私は、活元運動の会で行う、腰椎の身体感覚を持てるようにするための体操を考えていた。私が某整体指導者から野口晴胤氏の体操の話を聞いたのはちょうどその頃で、これは私が興味を持ったもう一つの理由でもあった。

 最初に私が考えた体操はちょっと脱力系?で、坐姿か立姿で上体を少しずつ反らせ、体重を腰椎に乗せていく単純なもので、次に呼吸と骨盤を中心にしたものも考えた。教えたこともあったが、やった人の感想はなかなかで、中学以来の便秘が治ったという人もいた(ただしこれは副次的効果)。

 でも、野口先生が説く行法ではなく、自分で考えたことを教えているというところで、先輩の批判を買ってしまった。先生の考えとしても、お前がもっと脊髄行気法をしっかりやって、ちゃんと教えられるようになってからにしろということだった。「L3やわい」くせに長いものに巻かれることができない私を心配してのことだったかもしれないが、私の体操設計はそれきりになってしまったのだった。

 そういう自分のことを振り返って平均化体操のことを思うと、探究を続けた先生は強いな・・・と思う。これも腰椎三番の違いかな。私は身を引いてしまうのだ。前々回「孫だから何?」なんて書いてしまったが、これでは「お前のL3こそ何だ!」である。やっぱり出した気は帰ってくる・・・。

 もう一回、活元運動の前にやる体操を考えてみよう。機会があったらそれを先生に見てもらおうかな?とふと思ったら、少し気が晴れてきた。

 

 平均化体操の教室から人が出て来た。終わったようだが、出待ちをしていても先生は見えないので、部屋に入ってお詫びをして、帰ることにした。私はこういう情けない時、「心でも体でも、異常を異常と感じれば治るのです」という言葉を思い出して気を取り直すことにしている。来月は、参加できますように・・・。

※脊椎の生理的湾曲 下図のように、脊椎は成長とともにゆるいS字を描くようになる。直立二足歩行はこれによって可能となっている。L3のLは腰椎(lumbar 1~5椎)のこと。

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腰椎三番の心理

①平均化体操の会 4回目ならず

 平均化体操は四回目に入る予定だったが、あろうことか!私は開始時刻に間に合わず、会場には行ったもののすでに始まっており、参加見送りとなった。もうがっかり・・・。やわい腰椎三番がさらに抜けてしまうくらいがっかりしてしまった。

 焦点となる腰椎に当りがついてきて、基本の三つの運動がなぜ上手くできないのかが分かってきたので、聞いてみたいこともあり、愉しみにしていたのに。

 でも折角来たのだし、先月、先生に「来ます」と言ったので挨拶だけでもしよう、と初めての「出待ち」をすることにした。椅子に座ってこういう失敗をする時は、どういう潜在意識なんだろう?と振り返ってみると、木曜日、土曜日の夜と続いた、私の所属する会での嫌な出来事が思い出された。

 今、会での私の立場は微妙だ。生前、整体の先生は弟子の中では最年少の私を傍から離さなかった(私も離れなかった)ので、年上の弟子たちや奥様から反感を買っていた。実際は、先生の私に対する要求水準は他の弟子に比べてかなり高い面もあったのだが、そういうことは見えないもので、私ばかりを可愛がっているようにしか受け取られなかった。

 そういう一連の空気と、その中で起きた出来事に、私は自覚している以上のショックを受けていた。そのショックに支配されていたために、ぼんやりして東海道線の鈍行に乗ってしまい、しかも気づいた時はすでに品川だった・・・(言い訳だけど、私は普段、車なので電車は良くわからない)。

 こんな風に、「今、ここ」から離れてしまうのも腰椎三番の問題だ。こうなると、所属する会のつまらない人間関係が、自分の世界のすべてではないことも分からなくなってしまう。今回のように大切な機会も逃してしまう。

 

 私は出待ちをしながら活元運動についての文章を書くことにした。

「活元運動」とは言わずと知れた野口整体の中心的行法だが、これがきちんとできるようになるというのは相当修練が必要だ。もっと言ってしまえば、腰椎の感覚も腰椎の軸もない人は、活元運動だけで健康保持をするのはそもそも無理ではないかと思う。必要な運動が切れ良く出るには、骨盤と腰椎が気の力で立ち上がってこなければならないからだ(分かりにくいな・・・)。

 でも一般に、こういうことを活元運動を指導する人から聞くことはあまりないかもしれない。「自然にゆだねる」「無意識の運動」といった内容を強調されることが多いのではないだろうか。しかし、活元運動が本式に出る身心にしていくのは、個人指導でなければ難しいと思う。

 これをどう伝えたらいいのか?文章は進まなかった。

平均化体操三回目までのまとめ

 まだちゃんとできるようになったわけではないけれど、これまでを振り返って、どうやら私は平均化体操に動かされているようだ。整体の先生よりずっと若い先生だし(私より若そう)、私もそれなりに整体はやってきたから、「孫だから何?」位の負け惜しみを言いたいような気もなくはないけれど、「事実は真理」である。

 そして、いくつになっても、「先生」と呼べる人がいるのは幸せなことなんだな・・・とつくづく思う。

 私がこれまで指導を引き受けた人の最高齢は89歳だが、このおじいさんは最初の指導から亡くなる4カ月前までの一年半の間、はるか年下の私のことを先生と呼んでくれた。私が「名前で呼んで頂いて結構です」と言っても、この年になって「先生」と呼べるのがうれしいからと言って、先生と呼び続けてくれた。

 その人は若い時、野口晴哉先生の講義を聞きに行ったことがあったけれど、本部道場の後ろのほうで話が良く聞こえず、それきりになってしまったという。どういうわけか気が合って、私の拙い整体の話を興味を持って聞いてくれ、「死んだらどうなるか」など死についての話をよくした。

 おじいさんは旧制中学時代、肺浸潤(結核の初期。抗生物質がなかった当時は怖がられていた)を起こして入院したが、病院から脱走したことがあるそうで、「あのまま病院にいたら死ぬと思った」と言った。そして亡くなる日、救急車で搬送されてすぐ、救急医療も受けることなく亡くなった。

 この人との時間は私が指導をしていく上での支えになっていて、心から感謝している。でも、今になってやっと「先生と呼ぶのがうれしい」と言ったおじいさんの気持ちが分かるようになった。先生と呼べる人がいるというのは、素の自分になれるということなのだろう。だから今、私は平均化体操の会では、ずっと生徒でいたいな・・・と思っているところがある。

 こんなことを言うと、整体の先生に「整体指導をする者がそんな〈甘えた(甘ったれ)〉ではいかん!」とまた怒られそうだ。確かに今回、長きにわたっての試練ではあったけれど、こんなに偏り疲労にはまって脱出に手間取ってしまったのは、やはり腰椎三番の問題があると思う。自分ではよくなってきたつもりだったのだが・・・。

 これは生前、先生によく言われた「型、そして丹田の問題」であり、今後のことを考えると大問題だと反省している。先生が元気で、いつも傍にいた時、私の丹田は先生の借り物同然だった。これからは自分のL3と丹田を拠り処に生きていかなければならない。でも、私は先生を失ったわけではないと確信するようになった。

 整体を学び始めた頃、野口先生が「関節可動性と心の自由」※について述べている文章を読んで整体の観方の深さに感動し、そのことを整体の先生にお話ししたことがある。すると先生も入門したころ、初等講座で「関節可動性と心の自由」というのがあったのが印象的だった・・・と話してくれた。

 きっと、次なる私の課題はL3の可動性(弾力)と心の自由、なのだと思う。そして私の「L3のやわさ」を平均化体操で鍛錬できるかな・・・と思っている。

※関節・・・野口整体では、手首足首・肩・膝・骨盤などとともに、一つ一つの椎骨も関節として見、その可動性を観察する。身心一如の整体の観方では、関節(身体)の可動性と心の自由度は一つであるということ。

〈補足〉

深く眠れば 弛む也

弛めば 休まる也

休まれば腰椎三に力充つる也

腰椎三の力 丹田に於て観る也

指を当て 息を吸いしむる也

野口晴哉(「月刊全生」扉)

 

病症を経過する

 三回目の会の後、私は整体の先生と私の体の状態が、非常によく似ていることが気になり始めていた。もともと、性差の違いは大きいものの、本当によく似ていて、体癖も非常に近く、左重心で、ものごとの受け取り方、感覚や好みも似ていて、手の形まで似ていた。先生も「お前はわしに似ている」と言っていたが、良くも悪くも、という意味があったのだと思う。世渡り下手も(これは先生の方が上かな?)、腰椎三番の力がちょっと弱いという弱点も似ていた。

 これは私が入門して数年たったころに先生から指摘されたことで、先生も入門当初、野口晴哉先生に指摘されたことがあるという。血のつながりはないのに、「体癖は血よりも濃い」(野口先生の言葉)というのはこういうことを言うのだろうか。

 これまで「似ている」というのは私にとって嬉しいことだったが、三回目の参加の後から、先生が晩年、体調を崩し始めてからの偏り疲労によく似た状態が自分に色濃くあって、そこから自分が抜けられないことがはっきりしてきた。これにはちょっとたじろいでしまった(その理由はもうちょっと整理がついたら書こうと思う)。

 今回、あまりないことだけれども、個人指導の途中で月経が来て、それと同時に風邪が始まり、時々微熱が出るだけではっきりした熱は出ず、月経中も骨盤に開閉異常を感じたの方ので、月経終了に合わせて活元運動をしながら骨盤の調整をした(4日目夜)。全体に経過が非常に悪く月経終了後も風邪は抜けなかった(平均化体操の会に行った時、風邪は6日目)。

 平均化体操に行った後、経過にどんなに時間がかかっても、なにもしないで待つことに決めた。すると二日後の夜、寝ようと思って明かりを消したら、突然両耳の奥が痛くってきて、結構ひどい痛みだったので頸椎を調整した(一晩寝たら痛みはすっかり治まった)。

 その後、アキレス腱下部から踵にかけて、足が着地すると痛むようになったので、座骨からアキレス腱(脚の裏)を伸ばすストレッチを数日間行なった(二日で痛みはなくなった)。この二つ以外は何もしなかった(活元運動は2回ほどした)。

 こんなふうに書くと平均化体操をやったから痛くなった、と思う人がいるかもしれないけれど、そういうことではない。これはもともとあった偏り(鈍り)に気づいたことによる。

 病症を経過する上で大切なことは、鈍っていたために感じていなかった異常感が出てくることだ。こうして異常感が出て回復要求が起こる。そして治癒へと向かうのが「正常な経過をたどる」ということで、体の弾力はこうして取り戻すことができる。

 抜けたな、と思ったのは18日目が過ぎてからで、自分の体が戻ってきたような気がした。

 野口先生の『風邪の効用』という本は文庫にもなっているのでご存知の方も多いと思うが、その中に、

 

 早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい。できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。(野口晴哉『風邪の効用』筑摩書房

 

という一文がある。

 今回の私は「敏感な体の状態」の状態ではなくなっていたために、経過が悪かったということは反省しなくてはならないが、体の「弾力性を恢復させる機会」でもあった。

 先生が亡くなる半年ほど前から、葬儀、そしてその後にも、さまざまな悲しみや失望、怒りがあった。でも風邪の経過とともに、そうしたことが自分の中で終わっていくのを感じる。

 病症経過の中で、それ以前の身心の状態に気づくことを通じ、心の自然を取り戻していくこと。そして症状を通して感情が鎮まることで、記憶が整理され物事を終わらせることができることを教えてくれたのは、先生だった。やっぱり先生は私の中で生きていているのだと思う。

※体癖と偏り疲労のことをつい書いてしまったけれど、説明はまた後日。註では説明しきれない。

 

平均化体操の会三回目

 クラスが始まる前に、講座申し込みのことを先生に聞いてみると、OKが出た。内心、私の先生の名前を出すと整体協会の先生は引くのかな・・・と思っていたけどそうでもなかった。

 でも、せっかくOKがもらえたのに、私は何となく浮かない気分だった。風邪の経過がいつになく悪くて、倦怠感が抜けないこともあるが、さっき先生に、自分が整体の先生の弟子であり、先生が亡くなったと言ったことをなかったことにしたいような気になっていた。こうして三回目のクラスは始まった。

 この日の課題は、「押す」だった。初回にも押すのには驚いたが、これまでは相手の力に合わせて押すというちょっと逃げたやり方をしていた。今回は相手の人に思い切り押すように促され、初回よりももっと力を入れて押すようにしてみた。相手の人は腕に力がある人のようで、大丈夫かと思うぐらいに押しても平気な様子だった。

 ひとしきり終わると、体に力が入らなくなってきたが、基本動作の時間はまだ続いた。私はだんだん、自分が「押す」という行為に抵抗があるのだということが分かってきた。そしてなぜこんなにも力を入れて動作しなければならないのかと思いはじめた。

 こうして最終的に分かったのは、私は人を「押す」のが内心怖いのだということだった。その詳細はちょっと控えるが、今の私に習慣づいている「押す」に対する感じ方は、痛みや過敏のある人に合わせたもので、それで怖いと感じるようだった。

こんなことにはたと気づいてしまい、自分としてはショックだった。愉気の時にそうするのは当然だが、そうではない時に、怖くてできないというのは、自分が自由を失っているということだ。

 他の参加者は、自ら手を伸ばし、互いに手や体を押し合うことで、緊張を解放している。やってあげる人・やってもらう人の区別もない。身体の力、体温、弾力を互いに感じ、安心感がもてることの意味は大きい。私はそれをこの体操の他にはない良さだと思い始めていた。それなのに、私はそれができないのだった。

先生は様子を見ていたようで、結局、上のクラスに行くのは様子を見て・・・ということになった。

私はつい、先生に「私、これできない」と言ってしまった。ちょっと子どもっぽい言い方だったけれども、先生は特に怒りもせずにどういうことが難しいのか聞いてくださったので、「押すのができない」と答えた。

 でもその時、「今のお前が、できるできないを判断するな!」という整体の先生の怒った声が聞こえた(ような気がした)。これは私の心の声なのか、記憶なのか(今のお前に判断する感性はない!黙ってやれ!とよく言われた)、はたまた本当に先生が言っているのか?それは分からない。でも、本当にその通りだなと思う。お話が聞けないのは残念だけど、このクラスで自分の知りたいことは質問してみよう、と思った。

 途中から、胸椎の四番左の硬張りが気になっていた。「心でも体でも、異常を異常と感じれば治るのです」という野口晴哉先生の言葉を思い出した。

 でも、今は身体的な変動があると心理的な揺れも大きくて、それはこの教室にはそぐわないかもしれないな・・・と反省した。整体をやっている割には自己管理能力が低いと自分でも思う。

野口整体の死生観

 先生が亡くなる前日の早朝、先生が救急車で搬送されたという連絡が入った。私は先生には道場で最期を迎えてほしいと内心切望していたが、それは叶わず先生はICUに入ったのだった。

 私は医師の説明が行われる場に同席することになった。もう治療をする段階ではなく、どうなっても不思議はないという、病状についての説明があり、人工呼吸器の気管挿入をするかどうかを聞かれた。つけなければもう今どうなっても不思議ではないが、やってしまうと自力呼吸ができるまで外すことができない。しかし緊急の場合は主治医の判断で行うため、説明の間に先生はすでに気管挿入されていた。

 そして、これから心肺停止になった時、心臓マッサージをするか、という選択をした。内科医の説明は親身で、何もしないという選択にも肯定的だった。

 その後、先生に会うことになった。若くして野口晴哉師に入門し、40年以上病院での治療を受けずに来た体が、気管挿入され、機械をつけられて、白い病院の服を着せられて、ベッドに横たわっていた。その時のショックは今でも忘れられない。極端にいうと、野口整体が瀕死であるかのように思えた。

 その後の主治医との話で、延命効果のための輸血はしないこと、死後解剖をしないことを決めた。そして次の日、夜が明ける前に、先生は亡くなったのだった。

 この時のことを思い出すと、本当はまだ冷静ではいられない。書き尽くせないくらいの思いがまだある。ただ、この経験を通じて、今、病院で死を迎える場合においても、医師がすべてを判断する時代は終わり、自分または近親者が生死にかかわる選択をしなければならないということを知った。

 苦痛と孤立を患者に与えるような終末医療を断る選択ができるというのは進歩だと思うが、それだけに個々の「死生観」が問われることになる。宗教家でも医学者でもない普通の人が、死を受け入れる「時」を決めなければならない。また、やろうと思えば、死を先延ばしにすることはある程度できてしまうくらいの医療技術もあるから、最後まで徹底抗戦という選択もありうる。

 先生の主治医はまだ若く、「命を助けること」に一生懸命になっていて、それで気管挿入をすることになった。しかしその後、40年以上に渡って医療を受けたことがないこと、そして心肺停止後の心臓マッサージをしないことを選択したのを知って、ちょっと驚いてはいたが、輸血をしないことに関しては肯定していた。解剖について聞かれた時、私は思わず「そういう人ではないんです」と答えてしまったが、それも肯定してくれた。

 この若い主治医は「僕も医者は嫌いです」と言いきり、「でも検査は受けてください」と言った。そこで議論しても仕方がないので何も言わなかったが整体に関わる人間は医者が嫌いで病院に行かないのではない。西洋医学の医師と野口整体との間には、健康、そして生死というものの捉え方に大きな相違があるのだ。

それでも私は、ICUで医師とこんな話ができたこと、先生の死を通じて理解したこと、感じたことのすべては、先生の最後の指導であると確信している。「宗教と科学」の問題は、これほどまでに身近で切実な問題なのかと今更のように思う。

 私はこの時の医師たちとの対話のなかで、「先生を失いたくない」という自分の感情もあったが、同時にそれを超えたある掟のようなものを腹の底で感じていた。それは、先生の命が向かっていく方向―生きる方向であれ、死ぬ方向であれ―に逆らうことは決して許されないということだ。この野口整体の死生観というものが、いつの間にか、私の中に根付いていたのだった。

 日本人全体から言えば、野口整体をやっている人はごく少数派で、今後も主流となることはないのだろう。しかし人の生死がかかった現場で決断を迫られる時、野口整体の死生観というものの持つ力は底知れない。ただ、元気な時から、病症の経過を通じて少しずつ養っていかなければ生きたものとはならないのだ。それを伝えていくことが、今後の課題となると思う。