アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

平均化体操の会 二回目

②いざ教室へ

 二回目の会は18時30分スタートだったので、熱海に帰れるかどうかを確認して参加した。

今回は一人で基本動作においてもかなり力を入れるという新たな課題が加わった。時折動きのよさそうな人を垣間見てみると、モーションが私の思っているより大きいようだ。

 それに体に力を入れた状態で、脊椎全体が動くようにするというのはさらに難しい。力を入れれば筋肉に意識が行ってしまうし、気を抜けば動きも緊張も流れてしまう。でも、随意筋で背骨を動かすというのはこの運動の特徴のような気がするが、背骨を意識する訓練という意味では、非常に良いような気がした。

「背骨に気を通す」というのは整体でよく言われることだが、緊張が強い時は背骨を感じることそのものが難しいものだ。そういう時は筋肉をまず感じてしまうので、深部にある骨は感じられないのだ。そういう時でも「動かす」と、動きの感覚が背骨の存在を感じさせてくれる。

5~6人、または不特定多数でやる本式の運動は、まだ入り方が良くつかめない。でも、緊張が流れていくのを捉えるというのが良くわからないので、できていないのだと思う。でも他の皆さんはきっとこっちのほうが楽しいんだろうな。今の私にとっては、二人でやるところまでがすごく興味深くて、もうちょっとやりたいな・・・という気持ちが残った。

そしてこの二回目のクラスで先生が特定できた。前でお話をする姿勢は右前、かな?この運動をする目的をちょっとお話してくださったのが良かった。そしてもう一つあるクラスでは、もうちょっと詳しいことが聞けるようなお話があった。

そっちに興味を持ってしまったが、先生の「指導者になることを目的としている講座」というニュアンスが気になった。私は自分がこれを教えようということまでは考えていなかったし、整体指導もあるのでうーん、と思ったが、お話はもうちょっと聞いてみたかった。

平均化体操の会 二回目

「ねじる」ができない

 初回、三つの基本動作(本当は名前があるけど忘れた)の内、私は体をねじる動作ができなかった。活元運動をやっている人はご存知だと思うが、野口整体の活元運動には準備運動があり、その中に腰椎三番を焦点に体をねじる運動がある。

 この場合は、骨盤と肩は同側が前に出る。そして肩というより軸をねじるという感じで、ギューッと力を入れてパッと抜く、という緩急が動きの中心になっている。私はねじるというとそのやり方が身についていた。

 しかしこの基本動作では、骨盤と肩は逆側になる。肩の動きも大きくて、何をしようとしているのか良くわからない感じがした。

 家でやってみても、よく掴めなかったが、ある時「Buenavista Social Club」(Ry.Cooder制作。革命以前のキューバ音楽の映画)のサウンドトラックを聴きながらふとやってみたら、ちょっとほどけた気がした。

何となく踊る時のように、焦点などは注意しないでやる方がいいのかもしれない。それにゆったりした古いキューバ音楽のリズムで、ゆっくり動くのが合っていたのかもしれない。

 他にもあと二つ動作があるが(名前が思い出せない)、前後に動く時も骨盤の前後ではなく脊椎の前後運動で、左右に動く時も脊椎の左右運動、という感じで、どちらもあまりまだつかんだ感じは持てなかった。動作の時、骨盤が先に動いてしまい脊椎が後になる、という私の体の癖が邪魔しているのかな、とも思う。

 対面して手で押しながら動くというのも、手や腕が動作の起点ではない私には結構難しいのだが、苦手な動作をすると、自分の身体がまた新しい感覚でとらえられるような気がする。

 

活は入ったか?

 平均化体操の会参加の後、私は不用品を整理しよう!と思い立った。身体に活を入れるという最初の目的は達したのかもしれない。まず着なくなった古い服から着手することにしたが、いざとなったら、何かが足りない。私はもともと物の整理は得意ではなく、スイッチを入れるために音楽が必要なのだと気づいた。

 それに何だか今の気分としては、ジャズが聴きたい。それも「Sing SingSing」という、よく終戦直後をテーマにしたドキュメンタリーやドラマなどで使われる古い曲がどういうわけか聴きたかった。

 しかし私の住んでいる地方の商店街には、CDを売るお店というものはなく、アマゾンかな・・・と思っている矢先に、偶然行ったホームセンターに三枚組1500円で「The history of JAZZ」というのを見つけた。よくある廉価なベスト盤だが、historyというだけあって、Sing Sing Singが入っている。それを買って服の整理に着手することにした。

 Sing Sing Singは、思った通り今の気分にぴったりで、作業ははかどった。この三枚組には私の好きなアート・ブレーキ―は一曲もなく、コルトレーンマイルス・デイヴィスが何曲も入っていて、少々選曲者の好みが強い気もするが、好きな曲がほかにもいろいろ入っていてお買い得だった。

 生活の中に新しい音楽が入ってくると、なんだか新しい風が吹いてくるような気がする。そういえば、ここしばらく音楽を聴いていなかった、と思う。

 活元運動をするときには音楽をかける人が多いと思うが、私は活元運動の時に音楽をかけるということはあまりない。でもこういう時、音楽というものの持つ力を感じる。

 その後、私は音楽を聴くようになった。昔聴いていたビートルズやクリーム、RCサクセション。それからボブ・マーリーにジプシーキングス、チェンバロが入ったバッハの曲。R&Bを実家に置いてきたのは失敗だったなあ。

 思い出すままにいろいろ聴いているが、聴いていると不意に涙が止まらなくなることがあり、それがしばらく続いた。先生が亡くなる前後から、取り出せなかった感情がまだ残っていたらしい。泣くとすっきりして胸のつかえが取れていくような気がした。眼も洗われていくみたいで、視界がはっきりしてくる。

 どうやら活は入りつつあるようだ。雲が全部晴れたわけではないけれど。

平均化体操の会に初めて参加する

  私は野口整体に入門以来、誰かに何かを習うということはなかったし、やり方は見て覚える方が好きだし、先生と呼ぶのはこの先生だけと思ってきた。それが、どうして行ってみる気になったのかは自分でもいまだにわからない。

その上、こともあろうに私の先生が袂を分かった整体協会の先生であるというのは、弟子としては少々気が引けたが、このクラスは整体協会主催という色あいが濃くない印象だった。それに、野口晴胤氏が何に価値を置き、どういう取り組みをしているのかを見たいという気持ちもあった。

会場は月島にあり、私の引っ越し先を探す(いろんな事情で熱海から小田急沿線に引っ越すことにしていた)ついでに足を延ばすという形で、エイ!と行ってみることにした(でも本当は、ちょっと「潜入する」気分だった)。

 

 初回、私は電車に不慣れなので余裕を持って出かけ、到着した時には会場が開いておらず、先生かスタッフと思しき人が更衣室と開場時間の案内をしてくれた。後でその人は先生ではないことが分かったが、本人が来るとは思っていなかったし、野口晴胤氏のお顔は、一歳時のまん丸な写真を古い月刊全生で拝見しただけだったのでわからなかった(ちなみにこの写真の面影は、今あまりない。当たり前か・・・)。

 和室の会場にはわりと多くの人が集まり、クラスが始まった。その日、初めての参加者は私含めて三、四人だった。

偏り疲労の話が最初に出てきて、なんか整体っぽいな・・・と思っているうちに実技の説明が始まった。初めてクラスの割に意外と展開が早いが、やってみる方が先のようだ。そして、一人でやる基本的な三つの体操(名前があるが忘れてしまった)の後に、二人で組んでやる運動をするのだが、私が驚いたのはここからだった。

 説明が難しいが、向き合って手を合わせ、かなりの力で押し合いながら基本の動作をするのだった。私はこの時点で、やっとこの体操は整体とは構えが全く違うのだと気づいた。

 私が組んだのはちょっと体格の良い若い女性で、ふと不安になって対面して押してくるパートナーの女性の顔を伺ってみると、意外なことに攻撃的というよりは真剣な表情で、ほんのり上気した頬と目の輝きが美しかった。

 私は彼女のきれいさを見て安心し、そうだ、拮抗するぐらいに押せばいいんだ・・・と思って押してみることにしたが、押しながら動くというのは結構難しく、相手と対峙しているので動きが逆になったりするし、引き運動の時も押すというのが大変だった。手・腕を起点にした動作は、私の普段の動きの中にはあまりないせいもあるかもしれない。

 正直言って、その後私はうやむやの裡に初回クラスが終わってしまったので、これ以上のことを書くのが難しいのだが、終わった後の参加者の顔を観察してみると、すっきりしたいい表情をしているし後の場にも清浄さがある。まだよくは分からないけれど、私の中にも明るさと快感があった。それで、これはきっといいものなんだな・・・と思った。

 体に対する支配力を高めるのではなく、体を解放していこうとする方向性をやはり持っているようだ。未完成な感じもあるけれど、純粋さと質の良さを漠然と感じた。

 活元運動の会では運動が出なかったりすることもあるけれど、個々の水準で積極的に参加できる素地があるのはいいことだと思う。

 その日、中心的な役割を務めた若いスタッフの方と少し話ができて、彼にも好感が持てた。活元運動のような「反応」はこの体操にはないようだが、頭の緊張が続いていた私はちょっと頭が重くなったので、少し休んで帰宅した。

 

 

平均化体操体験記

平均化体操を知ったきっかけ

 先生の葬儀の後、私は虚脱感からなかなか抜けだせず、自分でもどうしてよいのか分からなかった。

 何かちょっと、身体的に活を入れたいのだけれど、その時の状態では、自分だけでは難しかった。他の先生の整体指導というのは、今、受ける気がしない(多分、今後も受けないだろう)。

 

 そんな頃に思い出したのは、野口晴哉先生(野口整体創始者)夫人・昭子氏の著書に、野口先生が三代目となることを期した(生後すぐのこと)と書かれている、野口晴胤氏が始めた身体技法?のことだった。その話を初めて聞いたのはもう何年も前のことで、ある最悪なイベントの後、先生の道場に来た某整体指導者から聞いたのだった。

 それは「新しい整体体操(※)のようなもの」という今一つ要領を得ない話(私は先生から整体体操を教わったことはない)だった上、先生にとって整体の後継者とは整体指導を行っていくことに他ならない(組織とは無関係)し、イベント後のトラブルで少々不機嫌だったこともあってか、「整体指導はやってないのか・・・?」という反応だった。

でも、私は先生の隣でその話を聞きながら、内心興味を持っていた。そもそも生まれたばっかりなのに将来を決められ、それを本に書かれるとは残酷だと思ったし、どのような理由でそれを始めたのかは分からないが、そういう環境でクラシックな整体指導以外のことを始めるのは勇気のいることだ。

 その時の話を聞く限りでは、私の興味の中心である心と身体のつながりに関与するものではなく、身体的なものという印象だったけれども、やっていることそのものより「整体をやっていたこの人が大切だと思っていることは何だろう」ということに興味を持ったのだった。

※整体体操・・・活元運動ではなく、野口晴哉氏が設計した全身の脱力を図ることを目的とした体操。野口晴哉『整体入門』、『整体法の基礎』参照。

私の整体生活を確立する

今年に入って、私の野口整体の先生が亡くなった。

このブログを新たに始める気になったのは、そのことがきっかけだ。

私の中心に野口整体があることは、もう自分の信念になっている。

でも、私にとっての野口整体は、いつも先生とともにあったのも事実だった。

私は今、自分の整体生活を確立しなければ、と思う。

このブログはその過程を記録していくために書いていくことにした。

 

 アルダブラゾウガメは、数年前ある動物園からゾウガメが脱走し、何週間も行方知れずだったが、中学生の男の子と父親が発見した・・・というニュースを聞いて、その不思議さに感動したのがきっかけで好きになったゾウガメの一種だ。

 私が中学生の時からずっと好きな『モモ』(ミヒャエル・エンデ 岩波書店)という児童文学は、カイロス(内なる時間、生命時間)とクロノス(外なる時間、時計の時間)を主題にしており、その中には、道案内役としてカシオペイアという亀が出てくる。

 最近、よく見るとその亀のイラストはアルダブラゾウガメにそっくりであることに気づき、これにも驚いた。多分モデルにしているのではないかと思う。

 物語の中の亀カシオペイアは、人間に生命時間を与えるマイスター・ホラという人の亀で、時間の枠組みの外にいる存在であるとされている。

 現在、アルダブラゾウガメの飼育下での最年長個体は、1882年からセントヘレナ島で飼われている「ジョナサン」で推定183歳(2016年時点。おそらく今は185歳)になっていて、やはり人間の時間とは違う次元で生きているようだ。

 玄というのは思いつきなのだけど、タイトルに使うことにした。ただ、どういうわけか私が学生のころから好きな『老子』の一節にはこんなものがある。これが思いつきの元かもしれない。

 

谷神不死。是謂玄牝玄牝之門。之謂天地根。綿綿若存。用之不勤。

谷神、死せず。是れを玄牝と謂う。玄牝の門、是れを天地の根と謂う。

綿綿として存するが若く、之を用いて勤れず。

(『老子』第六章 福永光司 朝日新聞社

 

 これは私が不安になったり窮地に陥ったりした時、思い出して心の中で唱えると、不思議に心が落ち着いてきてその場を切り抜けることができるようになる不思議な言葉だ。それに気づいたのは今から67年前だが、今でも時々お世話になっている。

よろしかったらお試しください。

 

現在最高齢のジョナサン

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