アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

平均化体操の会三回目

 クラスが始まる前に、講座申し込みのことを先生に聞いてみると、OKが出た。内心、私の先生の名前を出すと整体協会の先生は引くのかな・・・と思っていたけどそうでもなかった。

 でも、せっかくOKがもらえたのに、私は何となく浮かない気分だった。風邪の経過がいつになく悪くて、倦怠感が抜けないこともあるが、さっき先生に、自分が整体の先生の弟子であり、先生が亡くなったと言ったことをなかったことにしたいような気になっていた。こうして三回目のクラスは始まった。

 この日の課題は、「押す」だった。初回にも押すのには驚いたが、これまでは相手の力に合わせて押すというちょっと逃げたやり方をしていた。今回は相手の人に思い切り押すように促され、初回よりももっと力を入れて押すようにしてみた。相手の人は腕に力がある人のようで、大丈夫かと思うぐらいに押しても平気な様子だった。

 ひとしきり終わると、体に力が入らなくなってきたが、基本動作の時間はまだ続いた。私はだんだん、自分が「押す」という行為に抵抗があるのだということが分かってきた。そしてなぜこんなにも力を入れて動作しなければならないのかと思いはじめた。

 こうして最終的に分かったのは、私は人を「押す」のが内心怖いのだということだった。その詳細はちょっと控えるが、今の私に習慣づいている「押す」に対する感じ方は、痛みや過敏のある人に合わせたもので、それで怖いと感じるようだった。

こんなことにはたと気づいてしまい、自分としてはショックだった。愉気の時にそうするのは当然だが、そうではない時に、怖くてできないというのは、自分が自由を失っているということだ。

 他の参加者は、自ら手を伸ばし、互いに手や体を押し合うことで、緊張を解放している。やってあげる人・やってもらう人の区別もない。身体の力、体温、弾力を互いに感じ、安心感がもてることの意味は大きい。私はそれをこの体操の他にはない良さだと思い始めていた。それなのに、私はそれができないのだった。

先生は様子を見ていたようで、結局、上のクラスに行くのは様子を見て・・・ということになった。

私はつい、先生に「私、これできない」と言ってしまった。ちょっと子どもっぽい言い方だったけれども、先生は特に怒りもせずにどういうことが難しいのか聞いてくださったので、「押すのができない」と答えた。

 でもその時、「今のお前が、できるできないを判断するな!」という整体の先生の怒った声が聞こえた(ような気がした)。これは私の心の声なのか、記憶なのか(今のお前に判断する感性はない!黙ってやれ!とよく言われた)、はたまた本当に先生が言っているのか?それは分からない。でも、本当にその通りだなと思う。お話が聞けないのは残念だけど、このクラスで自分の知りたいことは質問してみよう、と思った。

 途中から、胸椎の四番左の硬張りが気になっていた。「心でも体でも、異常を異常と感じれば治るのです」という野口晴哉先生の言葉を思い出した。

 でも、今は身体的な変動があると心理的な揺れも大きくて、それはこの教室にはそぐわないかもしれないな・・・と反省した。整体をやっている割には自己管理能力が低いと自分でも思う。