アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

脚下照顧

 コンビニに行く道すがら、ふと足元を見たら、土が溜まった排水口の中で、スミレが咲いていた。鉄格子越しに見えるスミレを見ていたら、不思議とウクライナの子どもを連想した。

 その帰り道、なぜウクライナの子どものことを思ったのか理由を思い出した。昔、学生だった頃、私は友人とセバスチャン・サルガド(報道写真家)の写真展を見に行ったことがあって、そこで床下の地面に掘られた、格子をはめた穴から黒人の男の子が見る者をじっと見あげている写真があったのだ。

 それが印象に残っており、穴の中でスミレが太陽に向かって咲いているのを格子越しに見た時、スミレが私を見上げているように感じた。

 写真で見たアフリカの子どもも、恐ろしいゲリラから身を隠すために地下に入っていたので、ウクライナの子どもを連想したのだろう。

 セバスチャン・サルガドの写真は報道写真でありながら絵画的というか、起きている出来事(事件)ではなく、人間の心情を伝える要素が強いのが特徴で、ちょっとフィクション感があるほどである。

 しかし、撮る人と撮られる人の心情、その現場の状況、時、こうしたもの全体を象徴する瞬間を捉えている写真だから、シンボリックで連想を呼び起こしやすいのだろう。私にとっては、戦時下の子どもという象徴だ。

 現実感がなくなる位、暴力と破壊が荒れ狂っている世界から身を隠しながら、地下から格子越しにこちらを見つめている、生き生きした眼。一方的に見られる存在ではなく、向こうもこっちを見返している。生命が、存在を主張している。

 こういう時、写真というものの不思議さを感じる。リアリティを逸脱しているような。

 それはともかく、父が無事退院できたので一安心である。入院前、父から「巻き爪」について聞かれたのだが、父はここ数年来、巻き爪に難儀していたようだ。

 巻き爪というのは足指(特に親指)に起こりやすいが、根本的には足の親指がいつも地面から浮いたような状態になり、足指に力が入らない立ち方、歩き方になっていることが原因にある。

 その理由は、整体的にはやはり頭の緊張が慢性的に強いこと、腰が硬張っていることが考えられる。体の状態を全体的に(整体的に)見ると、今回の病気とも無関係ではないことが分かる。まあ、父には足の母指球をゴルフボールでマッサージすることや、歩き方、立ち方ぐらいの話しかできないのだけれど。

 ついでに西洋医学的な巻き爪についての考え方も調べたのだが、その中に「足指の爪はもともと巻いてしまうもので、歩く時に足指に力が入ることで平らな状態が保たれている」という記述があり、ちょっと驚いた。足指が浮いた状態で、使われていないと巻いてしまうのが普通とのこと。これは知らなかった…。

 足というのは、人間が霊長類から人間になっていく上で生じた無理が集約されるところでもあるのだろうか。私は観察で足をよく見るのだが、足の形というのはその人の無理や抑圧、我慢や何かに耐えて緊張している生活を表象しているものである。

 巻き爪ではなくても、仰向けに寝たリラックス状態でも足の親指が上に上がったままの人は意外といるものだ。無意識的な癖だと思っていることが多いが、その背景には感情抑制、神経疲労、頭(脳)の緊張がある。たまにはじっと足を見て、自分の状態を把握してほしい。


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