アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

写真と絵の違い

 今日、夕方頃、外は晴れているのに雨の降る音が聞こえてきた。私は急いで窓を開け、出してあった洗濯物を入れた後、ふと空を見ると、虹が出ていた。色もはっきりしていて、二重(ダブルレインボー)だった。

 あまりのきれいさに驚いて、スマホで写真を撮ったが、間違えて動画を撮ってしまった…。撮影って苦手だ。私は超がつく下手で、思うように写真が撮れたことはほとんどない。

 でも、他の人が撮った写真を見るのは好きだ。下手だから感心してしまうというのもあるが、今、という時間と、自分のリアルが表現できるなんて、何とうらやましいことか。また、整体を始めてから、その人が見ているもの、注意が集まっているものがわかるのが面白いと思うようになった。

 伝える手段が写真なのか絵なのかは、人によって違いがあるし、受け取る側にも好みがある。私は体操などのやり方の図解は、写真よりイラストの方が分かりやすい。絵の方が、背景などの余分な情報を捨てられる分、焦点がはっきりするからだろうか。

 昔、私の知人に画家がいた。その人曰く、受験用デッサンとか、遠近法とか、「写真みたいな絵」を描く技法を大学で勉強することが、人の絵心というか、感性と才能を潰すのだという。彼は「そんなら写真撮ればいいんだ」と言った。

 写真を表現手段にしている人には失礼千万な発言だが、写真みたいな絵というのはカメラが出来てからの言葉で、カメラがない、またはその機能に制限があった時代は、写真を撮る代わりに絵を描いていたのだ。

 やっぱり写真は絵よりも現実味があり、つくりものではない真実という観念があって、「記録」という意味合いがかつてはつよかった。しかし、絵とはそういうものではない、と彼は言っているわけだ。

 彼は武蔵野美術大学で油絵を専攻したが絵で身を立てることはできず、実家の老舗かまぼこ店を継いだ。この人は私より30歳以上年上だったから、そのような近代初頭的な技法が正統画法?として美大で教えられていたのだろう(今はどうなのか知らない)。

 でも絵はずっと描いていて、引退後、店は人に譲って、自宅で子どものための絵画教室を始めたのだった。だから彼はそういうものは一切教えなかった。

 でも、その一方で「絵みたいな写真」というのもある。SNSなどで使われる、いわゆる「盛った」ポートレートとか、戦前の古い写真なども、意外と「絵みたいな写真」が多い。これは撮る人が意図せずに、絵画的な表現を写真でしてしまっているのだと思う。

 風景が今とは違うせいもあるが、日本人が撮ったモノクロームは余白が多く、墨絵のようで、西洋人の写真とは違う。

 しかし芸術写真というのはどうなのだろう。私の知人の女性写真家が撮っていた写真は、絵みたいな写真ではなかった。やっぱり写真でなければ表現できなかったのだろう。

 私が見たのはこんなじゃない、もっと大きくてきれいだったんだ!という思いでいっぱいだが、なんだか、すごく非日常的で、感動してしまったので、一応、記録として虹の写真も上げておこう。

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良く見えないけど、ほんとは二重だった…。昔、日本や中国では、世の中があるべきようから外れている時に出るとされ、不吉なものだったそうだ。しかも「5色」だと言われていた。7色になったのは明治になってからのことだという。