アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

行きて帰りし物語

 冬が近づいてくる。せっせとスープを作って、切らさないようにしている。

 少し前に腰痛のことを書いたのだが、じつはあの後から自分の腰が痛くなりはじめた。整形外科などに行くと、おそらく坐骨神経痛と診断されるだろうという感じだが、動けないとか何もできないとかそういうことではない。むしろ整体指導をしている時は痛くないのだ。でも、痛みは10日位続いていた。

 しかし、ふと以前「野口整体を愉しむ」というブログの記事の中で、手の指に愉気をする

https://flyingpooh.hatenablog.com/entry/2020/03/11/032410という内容があったのを思い出し、何となく手がその場所に行ったので愉気をしてみると、すぐに腰が軽くなってきた。

 私の場合(たしか体癖によって指が違う)は、左薬指の三節目なのだが、その後、骨にくっついていた柔らかいグミのようなものがずるっと動いた瞬間、腰が9割方治ってしまったのだった。腰を治そうと思っていたわけではないのに、である。

(力の入り方が偏っている状態は残っていたから即全快ではない)

 リンクを張りたいのだが、これは腰を治す目的で行う愉気法ではなく、記事全体の内容も思い出せないし、検索ワードも思いつかず、探せないのが不覚というか残念というか…。仕方なし。

 これって何だったんだろう?腰椎四番の関連だということは分かるのだが、私はいまだ にこういうことがあるとびっくりしてしまう。普段の体の使い方の反省をしつつ体の癖を再認識中である。

 振り返ってみると、腰が痛くなり始めたのはシュタイナーが死者と生きている人間との関わりについて述べている内容を読み始めた時で、私は『精神科学から見た死後の生』という本を買ったのだった。

 これまでに読んだ三冊は頂きものだったのだが、ついに自分でシュタイナーの本を買ってしまったのである。

 夏に『カルマ論』を贈ってくれた友人に、私の師匠の死に際して経験したことの意味が分かるかもしれないと言われていたのだが、もう一歩というところだったので、思い切って買ってみたのだ。

 そして私は、深い納得感とともに、意識下で「もっと早くに、先生が生きている時にこういうことを知っていれば」という後悔に支配されていたようだ。

 腰が痛む時、私は先生の左側の腰椎四番から仙腸関節にかけて手を当てていた時のことを思い出し、同じようなところが痛いなあと思いながら、その当時のことを思い出していた。

 すると先生の指導を受けていた人から、ふいに指導の申し込みがあり、その日の夜、左の薬指の愉気で腰の痛みがなくなった。

 児童文学の世界で、ファンタジーとは「行きて帰りし物語」(トールキンの言葉)だと言われる。 

 この世とは異なる世界に行って、旅をして成長し、帰ってくる物語ということだが、私は何だかシュタイナーを読んだこと、その後の後悔とディプレッション、腰痛が一連の物語、ひとつのファンタジーのように思えた。ちょっと大げさではあるけれど。

 痛みがある時というのは、注意の方向が自分の内側に向かっている時である。それは、意識と無意識をつなぐ通路ができて、過去というか、記憶の底に向かう時なのだと思う。

 でも、痛みにだけ注意を集め、動かないでいると、外界に意識が向かわなくなっていく。いわば「帰れない」状態になるのだ。

 そういう時、姿勢を整え、重心が下がるようにすると、痛みだけに注意が集まってしまう状態を脱することができる。こういう繰り返しの過程も必要だ。いろんなことを乗り超えて、自分を鍛えつつファンタジーの世界を旅する主人公のように。

 今回は薬指の愉気で痛みがなくなったが、それはこの世に帰ってくるきっかけのようなものだった。先生が教えてくれたのだろうか?

 ファンタジー文学の主人公なら、旅の後には成長しているのだが、私の場合はどうだろう?新しく申し込んできた人に、それを試されるような気がしている。

(追記)

読者の方にご教示頂き、「野口整体を愉しむ」の

アドレスを入れることができました。ご参照ください。