アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

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これからの霊学

 久しぶりにバナナブレッドを作ってみた。バナナブレッドは簡単手作りおやつの定番だが、昨年末に作った時、なぜかバナナういろうのような焼き上がりになってしまい、その後作る気になれなくなっていた。

 しかし先日、卵を泡立てて作るレシピを見つけ、それを参考にしてリベンジを果たすことができたのだ。やっぱりバナナブレッドはおいしい!でも、バナナブレッドは卵を泡立てないで作るアメリカ風(どっしり)が主流で、卵泡立て式(ふんわり)はバナナケーキ…という説もある。

 ともあれバナナブレッドをかじりながら、先日友人に教えてもらった鈴木大拙と神智学とのつながりについて考えてみた。

 日本では、神智学はほぼオカルト認定されているが、ジェフ・ベゾスGoogleの幹部などが受けた教育として知られるモンテッソーリ教育創始者は神智学との関係が深い人である。

 アメリカでは20年ほど前から、子どもの教育に熱心で経済的ゆとりのある家庭は、小学校ぐらいまでシュタイナーのヴォルドルフスクールかモンテッソーリ教育の学校に子どもを通わせるのが一般的になっているようだ。

 ただ、ユングなどは神智学に批判的だったし、神智学会にはいろいろ問題もあって、シュタイナーのように共鳴したものの後に神智学会から離れた人も多い。

 それにしても、鈴木大拙が結構深く関わっていたのは知らなかった。アメリカ人の奥さんの影響もあるのだろうか?鈴木大拙は昔、「フリーメイソンと関係がある」とか(古典的…)、陰謀論めいた怪しい噂が立ったりもしたようなのだが、神智学との関係も影響していたかもしれないなと思った。しかし海外では日本ほど怪しいというイメージはなく、東洋の宗教が広く西洋に受け入れられていったのは神智学の影響があると思われる。

 神智学が興った19世紀末~20世紀初頭、アメリカやヨーロッパでは、すでにキリスト教プロテスタントカトリックも)が心の救いにならない人が多くなっていた。教団の維持と教義が宗教の主体となっている問題は仏教など東洋の宗教も同じで、鈴木大拙キリスト教だけの問題ではないという認識を早くから持っていたのだと思う。

 19世紀末~20世紀初頭というのは、むき出しの資本主義、戦争…という暴力が支配する時代だったが、だからこそ霊性や宗教性が改めて問い直されたのだろう。

 当時の霊学が今の精神世界的な言説の源流にあり、当時の水準は超えていない。まあ、それは人間が当時の先覚者が目指したほど進化しなかったということで、パンデミックウクライナ侵攻を見てもそう思える。

 私は最初にシュタイナーの『神智学の門前にて』という入門書を読んだ時、死と死後のことにかなりの頁を割かれていることが意外に思えたのだが、段々、そこが人々に求められていたのだということがわかってきた。

 とりあえず宗教が機能しなくなって、一番壁に突き当たるというか、行き詰るとしたら死をどう理解し、受け入れるかということなのだ。宗教ではなくとも、何らかの死生観がないと死を受容することも難しい。

 日本では戦後に入ってもお墓を買ってお葬式をして子どもや孫に法事をしてもらう…というような素朴な死生観?が一般的で、仏壇などもそれなりに心の支えとしての機能を持っていた。

 やはり伝統的に、血統の存続が魂の永遠や再生と一つとされてきたからだろう。そういう宗教だとも言える。世襲やイエ制度というのはもうちょっと社会制度化されているが、原点はそこにある。皇室の万世一系とか男系維持というのはその原理主義的な形態だろう。(読者数多いブログだったら炎上かな…)

 しかし今、仮に墓を買うことはできても、普通の家が代々維持していくことは不可能になってきており、葬送儀礼や墓のあり方は変化していくだろう。こういう物理的な前提が変わっていくことから、嫌でも地縁・血縁から離れた死、個人としての死を考えるきっかけになっていくのではないかと思う。

 たとえば先日、私の伯母が亡くなったが、伯母は子どもがおらず、妹に当たる母が先に亡くなった夫の墓じまいと永代供養をすることになった。伯母は自分が墓に入った後、墓は風化して消える…いう素朴な考えだったようだがそうはいかないのだ。しかしそうなると位牌、仏壇というものもなくなるわけで、遺族は形として納まりがつかないような感じになる。

 実家に帰った時にそういう様子が感じられたので、写真、花、香炉と燭台、戒名を書いた神を置いて手を合わせる場所を設え、私がいる間は手を合わせるようにした。すると母や他の人たちも手を合わせてくれ、意外と好評だった。型通りでなくてもいいのである。

 両親も墓については考えているようだが、私は「孫に墓を見させようなどと考えない方がいい」と言っておいた。小さな変化だけれど、きっとこうやって、普通の人の中から意識が変化していくのだ。

 19世紀末~20世紀初頭はカリスマの時代で、今はもう当時のような霊的指導者が何人も出てくることはないだろう。現代は個人が様々な形で死に向き合うことで霊性につながる新しい扉が開く…というのが、これからの道筋なのだと思う。