アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

男とか女とか

 あるブログで、「男は優しい女が好き」という言葉は女に対する「呪いの言葉」である…という女性の意見についての記事を読んだ。この言葉を「女は優しくあるべき」という圧として感じた、ということのようだ。

 この言葉を発した男は、そういう男ってしょうもない、というニュアンスで言ったようなのだが、もし「男は優しい女が好き」と言っちゃった男が「俺は(僕は)優しい女が好き」と一人称で言ったらまた感じ方が違っていたのではないだろうか。

 以前、鴻上尚史は子役のオーディションで面接の時に「どんな人(異性)が好きですか」と尋ねると、男の子は小学生から高校生まで、ほとんどの子が判で押したように「かわいい子」と答えると言っていた。一方女の子は年齢が進むにつれ言うことが変わっていき、多様だという。

 鴻上尚史は同性ながら男の子の「かわいい子が好き」には「成長せんのかい!」と突っ込みたくなるそうだ。先の「やさしい女」は、この「かわいい子」と通じるようなところもあり、そこはちょっと私もどうかなとは思う。

 ただ、女が「かわいい」と言う時にはあまりエロい要素?はないが、男が「かわいい」と言う時には何となくそういうニュアンスがあって、「かわいい」の意味するところには男女差があると感じる。それでいくと「やさしい」の意味も男女で違うかもしれない。

 これは私の思うことで、先の女性が当てはまるかどうか不明だが、一般に女と言うのは一般論とか常識論とか、普遍的・客観的・合理的とされる言説を信じやすい・影響されやすい傾向にある。特に男が発する言葉はそうである。

 先の女性も、女が「男ってやさしい女が好きだよね」と言ったら「そうだよねー、やだやだ」で終わったのではないだろうか。男が言うから呪いが発効?してしまうのだと思うし、この女性は男の言葉の力を認めているのだ。

 まあ、怒ったり泣いたり笑ったり、というのも人と意見を交わす場ではありうることで、そういうことが一切発生しない方がいいとも言えないだろう。そこで関係が切れないで、対話が続いていくのだとしたら、そういうことがあった方が面白いぐらいだ。良いけんか相手になれるかもしれないのだから。

 LGBTとかジェンダーについての理解が広まり、男はこうだ、女はこうだという表現は憚られるような雰囲気もあるが、そういう話ができないのも息苦しい。

 さて野口整体では、男と女は身体も感受性も全く違うと考えている。もはや野口晴哉の言葉そのままだと誤解される恐れがある位だ。人によっては「呪いの言葉」と受け取る人もあるかもしれない。

 ただ現実にはそういう面は否めないし、真実をついていると言えるのだが、どうしようもないことと考えているわけでもない。互いに大人になって、自分と違う人間の感じ方や好みを理解できるようになることが必要だと考えている。

 しかしそれは考え方や、頭で分析したり割り切ったりすることではなく、体の問題であり、愛情ややさしさの問題なのだ。これは体癖の理解においてもそうである。

「男は優しい女が好き」だとしたら、「女もやさしい男が好き」なのだ。「強くなければ、生きてはいけない。優しくなければ、生きている資格がない」というハードボイルドな台詞を思い出した。男も女も、そうありたい。

補足

この言葉って、なんだっけ?と調べたらチャンドラー『プレイバック』だった。原文が見つかったので紹介。英語はハードボイルド感が半端ない。

女性の質問に対する素寒貧探偵マーロウの返事。

“How can such a hard man be so gentle?”

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”