アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

性差と性自認

 先日、友人が送ってくれた氷見の干物が届いた♪さっそく開けて、ウルメイワシを焼いてみると、うー、うまい…。整体の師匠と毎日夕食を食べていた頃を思い出した。先生はイワシ丸干が好きだったなあ。

 夏になると、生で丸かじりとか、お料理するにしてもできるだけシンプルな食べ物がおいしくなってくる。夏は人間も、ちょっと野性化するのだろうか。

 さて、6月はLGBT月間だそうな。もう最後の一日だけれど、性差と性自認について考えてみた。

 私がこういう問題を身近に感じるようになったのは20代の初めで、女性の友人がレズビアンであることをカムアウトした時が最初である。後に男性の友達もカムアウトしたのだが、その人は双子だったので、兄弟に伝えるのはかなり悩んだと言っていた。

 私自身、女の子らしい女の子という性質ではない、と思っていたし、自分の女性性を理解するのも時間がかかった方だと思う。

 性自認とか性的嗜好というのは、相当アイデンティティを揺るがすものだが、ジェンダー的イメージと違う自分というのも、自信をなくさせるものだ。

 しかしその後、タイを旅行している時のことだった。当時、タイの長距離高速バスにはバスガイド(多くは女性)がいて、ブランケットを出したり飲み物を勧めたりというサービスがあったのだが、その時私が乗った車両のバスガイドがトランスジェンダーだった。

 体格的には男性らしさが明瞭なのだが、その人はきちんと女性用の制服を着て、てきぱきと仕事をしていた。

 またラオスでも、相当な田舎でもトランスジェンダーと思しき人が食堂などで普通に働いていたから、ラオスとタイは伝統的にそういう人に寛容なのだろう。(女性が男性として生きる場合は不明)

 しかし当時まだ日本では、オープンにして働くとしたら、水商売とかそういう世界でないと難しかったと思う。だから、私的には結構カルチャーショックだったし、本当に平等な世界というのは、こういうことなのだと思った。

 そもそも私はコンセプトメイク的にチートとかいう言説にイラッとする方だが、こういう話をしだすと自分の言説もカタカナだらけである。日本ではまだそれだけ歴史が浅いのだ。

 それから私は野口整体を始めたのだが、野口整体の世界では、性自認がはっきりすることと、大人として体が完成すること、個として独立することを一つのこととして見ている。そういう発達は思春期からと言っていいだろう。

 もちろん、早くは胎児の段階から、母親の顔つきに胎児の性が変化を起こすこともあるし、赤ちゃんの段階から男女の違いはあるものである。

 しかしそれは無意識的なものであって、自認とは違う。男子・女子とか、子どもほど性差を主張したりすることがあるが、それは、自分では身体的な「ある・なし」や服装などの外的な区分しか分からないから、つまり性自認がまだ曖昧だからではないだろうか。

 世の中には自分の性自認や性差に何の揺らぎも感じたことがない人がいるが、それが外的に刷り込まれたイメージや常識による度合いが強いと、その人らしさ、個性を理解するのが難しくなる。

 これは伝統的な遠野のわらべうたの教えなのだが、女の子に初潮が近づく年齢になると、子ども時代の終わりを告げる手毬唄を教えていた。

 それは歌詞に意味があるのではなく、膝をぱっと開いて毬を膝で挟むという動作を教えるのだが、最初は何も感じず無邪気に膝に毬を挟んでいた女の子が、その動作をするとある感覚が芽生えるようになり、恥ずかしがってやらなくなる。

 すると大体その頃に初潮が来て、子ども時代が自然に終わるのだという。

 私はこの話を、野口整体を始める前に聞いたのだが、思わずうーんと唸ってしまった。こういうことを真の性教育、また潜在意識教育というのだろう。

 整体的にも、膝でぱっと挟むというのは骨盤の開閉を伴う動作で、性的な発達や機能と関わる運動なのだ。性自認というのは本来、こういう内的な身体感覚から育ち、分化していくのだと思う。

 ここまで書いてきたことは、身体的な性と性自認が一致している異性愛の人のことだけれども、異なる過程をたどる人もいる。動物の世界にどの程度LGBT問題があるのか分からないが、人間ほど複雑ではなさそうだ。

 きっと、人間ならではの問題には、人間らしい向き合い方が必要なのだと思う。