アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

大人になること―『嫁と姑 上』を読む

大人になるってどういうこと?

 前回、shigeseitai2さんにコメントを頂いた。率直な心情が伝わってくる内容で、お人柄が感じられるコメントだったこともあるけれど、コメントって、本当にうれしいものだな・・・とつくづく思った。

 最近、ブログにコメントを書く人が減っているような気がするが、これは炎上や荒らしが頻発したからだろうか。

 でも、ブログの持つ双方向性は、大切にしたいと思う。twitterなどより、ブログの方がきちんとテキストで対話ができるし、私もないように共感したら、もっと書くようにしてみようかな。

 そういうわけで、前回に引き続き女性の心と体について考察しようと思い、野口晴哉著『嫁と姑 上』(全生社)を読み返してみた。

 この中で野口先生は、姑の中に若い時と変わらない「女」があることと、嫉妬の問題について微に入り細を穿って述べており、女って悲しいな・・・と気が滅入るぐらい、人間の裸の心に迫る内容である。

 私はその故にこの本をきちんと読んでおらず、今回初めて真面目に読んだことを白状しておく。

 そして野口先生は、「良い姑になるにはどうすればいいのか」というと、「成長して大人になること」だと言う。ここが今回の我田引水ポイントなのだが、野口先生は同著で次のように述べている(「女」というもの58頁 先ず大人になること)。

 自分の言おうとしたり、自分のやろうとしていることが自分から出発しているだけのうちは、まだ子供なのです。子供も一年近くなると、自分以外に他があることが判る。

 更に自分と相手の他にもう一人見物人がいる、世間があるというように、三つが見えるようになると、大人の世界に入ったと言える。自分と世間しか知らなくて、お嫁さんを感じないというのは大人ではない。

・・・自分と相手とそれに世間がある。主観的なもの、客観的なものの他に、主観と客観を一つにしたものがある。一が二になり三になる。三より万物なるというのが老子の最初の(始まりを説く)言葉です。そういうようにみんな三つの見方からできている。

 それから動作が身についてこないと、相手も知り、自分も知り、世間も知っているということにならないから大人になれない。

(註)『老子』第42章

「道は一を生ず。一は二を生じ、三は万物を生ず。」(道が一気を生じ、一気が分かれて陰陽の二気を生じ、陰陽から沖和の気が生じ、沖和の気から万物が生じて調和と平衡がもたらされる、の意。

 

 私は前回、女性というのは「自分を見てほしい」という注意の要求が強いこと、人に認められることで自分の存在感を確かなものとして感じる傾向があると書いた。

 野口先生はこの本の中で、良い姑(あるいは嫁)と認められようとしている人は「自分がどう思われるだろうか、という自分のことしか考えられない」と言う。それも子どもということなのだ。

 野口先生が意味する「人間が大人になること、成熟すること」とはどういうことなのかというと「個人を理解する」ことができること、である。個人というのは家庭や社会における立場や役割のことではない、「この人」のことだ。

 野口先生は、指導者になる人に、澄んだ心で「松の木を松の木として見る」ことができるようになることを求めるが、それと同じことをこの本の中でも説いている。

 過去の経験や感情、自分では意識しない感情が感受性に反映し、その感情に色づけられた先入主から事物や人を見てしまうものなのだ。その上、性もあれば体癖もある。そういう体のレベルから、自身と相手を理解するというのが、大人になるということなのだ。

 そして野口先生は、活元運動を勧めている。体の弾力がよくなれば、過去からではなく「今」の心で、ありのままを観ることができるし、自分の要求と行動がすっきりつながることで自分の中も明瞭になる。

 こうして、身体の行が心に及ぶことで、人間は大人になる・・・と野口先生は説く。

 こういうことは、女性のみならず男性にも通じることだ。さっきの三から万物が生ずるという原理から言うと、両性具有的というか、性を超えた観点を持つことが、大人になる、そして心の自由や人に対する愛情に通じるのではないだろうか。

 中年期の心の発達の課題に取り組んだユングは、「心理療法は人間を成熟に向かわせるためにある」と言った。野口先生は『嫁と姑』で、大人になるには(自分以外の人間を理解し、大切にする重要性を実感として体で知っていくには)50年か60年かかると言っている。

 やはり大人になるには、年だけではなく修行が必要ということだ。がんばりましょう。