アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

違いを超えて

 先日、ある方から苺を頂いた。大きめの箱を開けると大きくて形の良いりっぱな苺が一粒ずつ並べてあって、そのつやつやした赤色が見とれてしまうほど美しかった。

 たくさんの美しい苺を眺めていたら、子どもの頃、『森は生きている』(マルシャーク 岩波書店)という物語と、その元になった東欧の民話『12のつきのおくりもの』という絵本が好きだったのを思い出した。その中に、各月を支配する精霊たちが真冬に苺摘みをさせてくれるシーンがあるのだ。

 この二つの物語では苺の季節が5月か6月とされていて、小さかった私はそれがとても不思議だった。当時は寒い国だからかな?と思っていたが、苺の本当の旬は日本でも5~6月なのだそうだ。

 しかし日本では、赤いつややかな苺は春の活気を伝えてくれる果物というイメージになっている。俳句や短歌の季語では、どの季節に入っているのか分からないけれど。

 当時好きだった児童文学と言えば、以前も書いたが、私は子どもの時ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』(大きな森シリーズ 福音館書店)が好きだった。しかしアメリカでは、この本がアメリカ史の教科書的な扱いをされることには問題があるとされていて、論争になっている。

 ローラの物語は典型的なプロテスタントの白人(アングロサクソン)家族による西部開拓という、いわばアメリカの「神話の時代」を語る物語でもあるが、マイノリティーにとってのアメリカ史とは言えず、物語に出てくる黒人やネイティブ・アメリカン(インディアン)に対するまなざしや表現も問題視されているのだ。

 日本で生まれ、日本で育った私にとっては、むしろネイティブ・アメリカン(インディアン)に対する興味を持った最初のきっかけになり、アメリカ史というよりはローラの成長物語という読み方をしていたので、大きくなってから本国アメリカでは論争的な本だと知り、意外に思ったのを憶えている。

 ただ、問題を指摘する人たちも、この本を出版禁止にしたり学校から追放したりすることで、差別や偏見がなくなるわけではないと考えているようだ。

「触れない」ことで「ないこと」にしようとする日本とは異なり、こういう論争を正面から続けることがアメリカの良識なのだろう。最近は一方的に主張する傾向が強まって、対話も論争もできなくなってきているようではあるが。

 感情移入をするだけで、自分しかない主観の世界に住んでいるのが子ども時代だとしたら、違う世界や感じ方があることを知り、いろんな主観を受け入れられるようになることが、大人になるということだろうか。

 愛されることや理解されることを求めるだけではなく、自分が愛することや理解することができるようになるというか。そこに至る過程は、いろんな道があるけれど、その上で自分の本当の心がはっきりしていて、感じたことを表現できるのが大人なのかなと思う。様々な水準はあるけれど…。

 何だか頭が働かないから、今日はここまで。アメリカの黒人詩人、ラングストン・ヒューズの短い詩を思い出したので引用しておこう。

 高校生の頃、茨木のり子編のアンソロジー『詩のこころを読む』を読んで知ったのだが、その時のショックが今も心に残っている。原文もあるけれど、何だか日本語訳の方がいいような気がしてしまう。

助言

みんな、云っとくがな、

生まれるってな、つらいし

死ぬってな、みすぼらしいよ

だから、掴まえろよ

ちっとばかし  愛するってのを

その間にな。

木島 始訳

Advice

I am telling you that birthing is hard and dying is mean.

Get your self a little loving in between birthing and dying.