アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

生きる価値とはー死について考えた後に

 最近、米軍住宅に住む家族連れを、パンデミック以前のように自宅付近で見かけるようになった。マスクはしている人が多いけれど、していない人もいる。アメリカ本土では治まっていない所もあるようだが、かなり感染状況が変わってきているのだろう。

 何となく、アメリカは中国にマウントを取られまいとして、がむしゃらにやっているのではないかという気もしないではない。日本人の負け惜しみかなあ?

 ところで、公開していないけれど、前回の記事で「人が生きている、あるいは生きていたことの価値って何だろう?」というコメントを貰った。

 ストレートに問いかけられて、実はうーんと考えてしまった。まだ死ねないから生きている、のだろうか?

 そこで「じゃ、生きる価値がない」とはどういうことだろう?と問を立て直してみた。そして、「自分は生きる価値がない」と思った時の自分のことを思い出してみた。

 そうやって思いついたのは、「価値があるとかないとか決めるのは主観だ」ということだ。この主観というのは、身心がどんな状態かによって変わる。整体的に言えば感受性の変化というやつだ。

 だから、生きる価値がある、またはないと感じる状態があるということで、本心、心の本性、そういうものとのつながりを失っている時、「生きる価値がない」と感じるようになるのではないかと思った。

 今回はそういう返事をしたのだが、考える良いきっかけを貰ったように思う。

 私はユングという人が好きで、よく話に出してしまうのだが、ユングは無意識について研究している内に、意識よりも圧倒的な力を持っていることが分かってきた。そして次第に無意識があることの方がむしろ当然で、「なぜ意識があるのか、ちっぽけな自我というものがあるのか」の方が不思議だと思うようになったと言っている。

 考えてみれば確かにそうだな…と思う。本当に、もしかすると人間は自然界からしたら負荷でしかないかもしれない。そういう人間が存在する意味とは何だろう?ある意味、死ぬことよりも不思議なことだ。死ぬというのは自然の領分で、死なない生物はないのだから。

  こんなことを考えていたら、首都圏に緊急事態宣言が出されたお見舞いとして、富山の友だちがまた鱒の寿司を送ってくれた!ありがたい…。

 以前のアレルギーがあった時だったら、ほぼ致死量?という分量を食べても大丈夫になれたのが嬉しい。こんな小さなことでも「生きる価値あり」は感じることができる。いや、むしろ何もしなくても、生きている状態そのものが快感であればもっといい。

 ことに今のような時代は、外的に何かをしたり、作り上げたりということのみならず、自分が生きていること、他の人が生きていることそのものを価値あるものと感じられることが大切なのだと思う。