アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

性別と整体

 先日、タワーレコード宮本浩次の新譜を買いに行ったら、初回限定版が品切れ…。12月の初めに入るというので予約したのだが、CDを予約して買うなんて、本当に何年振りか!しかも私はチャート入りするようなCDを買うということ(しかもJ Pop)そのものが、ほとんどない。

 この『ROMANCE』というアルバムでカバーされている曲は、全て女ことばの歌詞で、ジャンルもロックではない。でも、宮本氏が歌うと違う情景が見えてくる気がする。

 私が先日、マツキヨで「あなた」を聞いた時に感じたのは、「誰かの不在」だった。これまで漠然と、誰かに「要求している歌」みたいに思っていたのだが、曲を聴いた時、この歌の主人公?のそばに、「あなた」はいないのだと思った。それで「Blues」という感じに聞こえたのだと思う。

 宮本氏はインタビューで「男らしさにこだわってきた自分が、女ことばの歌詞を歌うことで、自分が解放されていくような気がした」(要約)と言っている。それが自分の新しい表現につながっているようだ。

 私は、新型コロナウイルスパンデミックが始まった頃から、台湾のデジタル大臣、オードリー・タン氏に注目して、インタビュー記事などもよく読むのだが、この人はトランス・ジェンダーである。性的嗜好というより、身体的に(ホルモンバランスなど含め)中性なのだそうだ。

 この人の記事を読むと、日本が韓国や中国とつまらない意地を張り合っている間に、台湾はその先へ行ってしまったのだと思う。

 ほんのつい最近まで、世界中が中国の生む富に眼がくらみ、中国に忖度していた時代、台湾は独自の立場を守ってきた。中国の古典で言えば「鶏口牛後」だろうか。それが今の、アジアの中で一馬身リードという台湾の在り方を育てたのかもしれない。

 出典は忘れたが、中国には「武力で他国を占領すると、文化で(占領したはずの国に)敗ける」という哲理があって、古代からそれを繰り返している。今の中国と台湾を比較すると、このことをつい思ってしまう。

 それはともかく、話を「性差」ということに戻すと、野口晴哉的には、「人間においても、女は人間の男より虎のメスのほうが近い」という考えである。

 生物としては、やはりそのようにできていて、性がはっきりしていることは、個体の完成、そして種族保存のために必要不可欠な前提なのだ。それに、女・男という体の違いは、心理的にも、体全体の働き、病症の在り方にも違いをもたらしている。

 オードリー・タン氏のように、中性という状態はどうなのかはっきりとは言えないが、私個人は、オードリー氏が現在、ありのままで健康であるならば、もう一つの性の在り方なのだと思う。

 もっと言うと、大脳が発達していて、あらゆる場面で対立を生みやすい人間は、種として中性を一定の割合で許容し、必要とさえしているのではないだろうか。

 野口先生や私の師匠にこんなことを言うと破門されるかもしれないし、おそらく野口整体実践者の中では超少数派の考えであるということは明確にしておきたいが、正直言って、私はそう思っている(ただし、外科的手段や薬物療法には慎重になってほしい)。

 ユングは人間の心の深層には「内なる異性」がいる、と言った。

これは現実の異性というよりイメージで、男であっても女っぽい部分、女であっても男っぽい部分というのが誰にもあるものだが、潜在しているその要素を意味している。現実の異性は、この内なる異性のイメージを重ねて(投影して)見ているのだ。

 心理的発達に伴い、この「内なる異性」のイメージは変化していく(例えばお母さん→少女→性的対象としての女性→精神性の高い女性というように)。

 この内なる異性が、自我と無意識(たましい)をつなぐ仲介者であり、最終的には男である自分と、内なる異性がひとつの人格として統合へ向かうのだという。

 多くの人は、男か女かのどちらかに寄っているわけだが、男はこうだ、女はこうだという大雑把かつ動物的な段階を経て、心が成長した後には自分の中の異性に向き合うことになる。現実生活の男女関係はその前哨戦らしい。

 ユングは、中年期に入ったら、男女ともに「♂・♀」という生物的段階から、内なる異性の意識化を経て文化的・宗教的段階へと発達するのが健全だという考えだった。

じつは野口晴哉も、著書『女である時期』で、女である時期というのは「生殖に最適化した体」である時期ということで、更年期はその生物的段階から、人間という統合的段階に移行する時期なのだと言っている。

 これは、現代人の「若さ」に対する悲しい執着を超える、一つの提言ともいえるだろう。