アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

晴風万里 理想のお墓について

 先日、地元の乾物を送ってくれた友人に、お礼状を兼ねてムーミンのクリスマスカードを送った(ムーミンに似ているため)。

 15日のWHOの発表によると、「サンタクロースは高齢者だが、新型コロナウイルスの免疫を獲得した」とのことで、まずはめでたいことである。そして子どもたちにサンタとのソーシャルディスタンスを保つよう促している。

 アメリカとヨーロッパの現状が深刻さを増す中、公式な報道官がこういう発表をするというのが、西洋の良い所だ。大人文化、というか。

 元保育士のおもちゃ作家、杉山亮氏は、クリスマス前にワークショップで訪れた幼稚園(仏教系)で、僧侶の園長先生が「みんな、サンタさんが来てくれるように、仏さまにお願いしましょう!」と子どもたちに説法?しているのを見て驚いたことがあるそうだ。

 ま、それも日本ではありかなと思う。他のお坊さんはどう思うか分からないけれど。

  さて、お墓の話だった。野口晴哉のお墓には「晴風万里」と刻まれているという。野口晴哉には、近代初頭の復古神道系の霊学(松本道別など)との関わりもあり、葬儀は神道式だったと聞いている(ご子息の裕介先生の葬儀はどのようにされたのか分からない)。

 でも、禅に造詣が深く、愉気法の会で阿字観(真言宗の瞑想法)を解説している資料もあり、生命観などは万教帰一的と言っていいかと思う。

 私の師匠は野口晴哉のお墓参りに行ったことがあるのだが、行ってみたものの「先生はここにはおらん」と思った、と言っていた。そうだろうな…と私も思った。

 野口晴哉は、乳児の頃父を亡くした3才6か月の女の子が、「パパはお砂の下よ」「寂しい」と言うのだが、この子に父の死をどう教えたらよいのか…という質問に対する答えの中で、母親が死の話題をタブー視している問題を指摘した後、こう言っている(『月刊全生』)。

 砂の下に行っているのは体(遺体・お骨)なのです。…“お父さんの体”は砂の下に行った。けれども“お父さん”はそんな所に行きはしない。

 お母さんの中にいるのかもしれない。あるいは少しフワフワして、陽気に、どこかの雲の上にでも行ってしまっているのかもしれない。私なら、死んだら雲の上に行きますね、そっちの方が景色が良いですから…。

 だからお父さんの体はそこ(お砂の下)にあるけれども、お父さんはどこかに行ってしまった。

  やはり野口先生はお墓の下にはいそうもない。きっと、雲の上に行ってしまったのだろう。

 私の師匠の葬儀は真言宗(智山派)の僧侶が来てくれたが、先生個人は葬式仏教や拝み信心が大嫌いで、檀家だったわけでもない。ただ近所だった、というだけだ。お骨は海に散骨され、お墓はない(先生に子はない)。

 先生は山が好きだったから、散骨は山の方がよかったかな…と思うけれど、法律的な問題もあるらしい。

 私の祖母は生前、死んだら土に還りたいという強い希望があったので、墓地の土を掘って直接、骨を埋めた。これははっきり違法なのだが、こっそりそうしてしまったのだ。

 当時、私は中学生だったが、「土に還る」という死生観と、そのようにした伯父と父をすごくいいな…と思い、おばあちゃんはきっと喜んでいると確信した。

 だから、私は昔から「体(遺骨)」のほうは「土に還る」というのが良いと思っている。魂は時間と空間を超えた自由な存在になるのだから、話しかければすぐ応えてくれる。そして私は先生の死後、理想の墓地を夢見るようになった。

 まず、放置された杉林や竹林などで荒れてしまった山を買い、一区画ずつ墓地として多くの人に買ってもらう。なるべく水源地がいい。そして、その土地に散骨する。

 そこに在来種の苗を植樹し、植物層を回復して自然に戻していく。こうして明治神宮のような森を育て、最終的には限られた小さな区画ではなく、その自然公園全体を墓地としていく…という夢だ。いこいの場を作って、そこに僧侶や司祭、牧師、神主、何でも呼んで追悼を行うのもいい(要予約)。

 山を御神体にしている神社(大山阿夫利神社など)では、本宮と奥宮があるが、いこいの場を本宮と考えたらいいだろう。頑張れる人は山を登り、このあたりかな…というところまで行くこともできる。こうして死後、日本の自然を再生するのだ。

 こういうお墓、どうでしょう。誰か、出資してくれないかなあ?