アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

見るものと見られるもの

ある女性写真家の自己実現 

 先日、何となく好きで読んでいるブログ(野口整体とは無関係)に、唐突に知人の写真家(故人)の名前が出てきて、驚いた。でもそれは、その人の写真がどれほど高い評価を受けていたか、名が通っていたかを、私がちゃんと理解していなかったせいで、写真の世界では別に普通のことなのかもしれない。

 私は彼女と会う以前から、ロバート・キャパセバスチャン・サルガドなどの写真が好きだった。落合陽一氏的には「エモい」とか言うのかもしれないが、時を捉える冷静さと感情の両方が感じられる写真が好きだったのだ。

 その女性写真家は、私の師匠の整体指導を受けていて、ちょうど私が入門したのと同じ時期に「プロ志向なしの塾生」になり、一緒に整体の勉強をしていた時期があった。

 彼女はたしか30代終わりぐらいまで、某有名出版社の編集者をしていて、ファッション誌の編集長にもなった。その後、ある有名ブランドのデザイナーに才能を見出され、その専属となったと聞いた。そのブランドは日本語にすると「少年のように」という意味だったが、彼女自身、そんなふうに見える人だった。

 他の塾生と、あるトラブルがあって、指導に来なくなったのだが、先生とはときおりやり取りがあった。

 実際に私が彼女と接したのはほんの短い間で、半年ぐらいのことだったと思う。私はこの人から編集の基本のきから教わって、先生の原稿書きを手伝うようになった。こうした縁もあり、私は彼女に興味津々だったので、仕事や自身についての内面的な話も、先生と一緒に聞いたり、二人だけで聞くこともあった。

 私はこのブログに亡くなった人のことを書くことが多いが、彼女の死は、自死であったという。亡くなったと知って、私はこの人が大好きだったことにやっと気づいた。なぜもっと親しくならなかったのだろうと後悔した。そして私も、今、この人が亡くなった時と同じぐらいの年齢になった。

 このブログにも少し書いたことがあるけれど、ずっと若い時に影響を受けた陶芸家も自死だった。だから私は、良いことだとは思わないけれど、自死をすると、地獄の苦しみを味わうなどという宗教的・スピリチュアル的言説はあまり信じられない。

 まあ、それはともかく、彼女がこれまで出会った人の中でも特に印象深い人であったことは確かだ。私が彼女に出会った頃、彼女は精神的な危機の中にいて、それを何とか経過しようとしていた。

 彼女のような人には、中年期になると、個人的・内面的問題と、表現という外に向っての創作活動の行き詰まりがいっぺんに、共時的に起こってしまう時期があって、「創造の病」とも言うべき状態に陥ってしまうのだと思う。

 それを超えるために、彼女は野口整体の「腰」というものに着目していた。腰によって、分裂した何か(内的・外的両方で)を統合し、自分と対象を一つにすることができると考えていたのだろう。彼女の中には対象と一体化する要求というか、「自他一如」という身体性と、冷徹な客観が同時にあった。もう少し、整体指導を続けていたら…と思わずにはいられない。

 指導の中で「天衣無縫は美ではない」という野口晴哉の言葉を説かれて、はっとしていた彼女の瑞々しさが懐かしい。

 彼女から聞いた話で今でもよく覚えているのは、弟子志望のアシスタントを辞めさせた時の話だ。彼女がその若い男のアシスタントに求めたことは「私と同じものを見なさい」ということだったと言う。

 しかし、その彼にはそれができない、意味が分からなかったのだそうだ。それは写真家として致命的なことなんだ、と彼女は言った。写真を見て感動するのは、写真を媒体として、撮った人のその時の心に共鳴するからなのだ。

 そして私の師匠はそれを聞いて、「そうだ、その通り。整体の観察でもそうだ。同じものを見る、っていうことができないんだ」と言った。初学びの私は、それを深く心に刻んで、先生と同じものを見よう、と決め、それを修行の中心にした。それは今でも変わらない。

「同じものを見る」というのは、「同じ心の状態になる」というのと同じで、彼女は「スチール写真が好きだ」と言っていたが、同じ被写体でも見ようとしている心の角度が違えば、同じものを見ていることにはならないのだ。 

 彼女はもう、この世にはいないけれど、写真は今でも見ることができる。対象と一体になろうとする彼女の集注力、「同じものを見て」という彼女の思いが、今も写真の中には残っている。