アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

地に足がつく

重心と身体の安定性

 先日、故・柳田利昭(整体協会体癖調査室)・ 浅見高明(筑波大学 体育科学系)両氏による、「活元運動による体重配分の変化」(人体科学 1992)という論文のPDFをGoogle検索で偶然見つけた。

 体量配分計の権威、柳田先生の後継者という方も、きっと整体協会にはいると思うが、私はこの数値表の見方すら分からない。でも、エッジな分野だったから、私の先生は若い頃、勉強していたようだ。

 この論文はざっくり言うと、「活元運動後、動作がしやすくなめらかになって、体が一つにまとまり安定するという身体感覚を多くの人が持つ。それは活元運動によって重心の偏りが正され足の着地が安定することによるもので、それを配分計で計測して確かめる」という内容だった(と思うが、ざっくり言い過ぎかな?論文を参照のこと)。

 この論文の前段に、野口晴哉先生がなぜ体量配分計を考えたかについての記述があって、それが興味深かった。ちょっと長いが引用してみよう。

野口晴哉は 、人間の身体の体重感覚について 、意欲に満ちて気力十分なときは自分の体が素直に動き、且つ軽い実感があるのに 、疲労し無気力になると体がだるく重く鈍重な感じがあるが、物質としての体重には殆ど変化がないにもかかわらず身体感覚がこのように変化するのは、どのような運動相違によってもたらされているのかという疑問をもった。

この体重感覚の変化を数量化する目的で 、立位姿勢時に足底にかかる体重を六分割して計測した。そして立位生活の姿勢や動作を9種類に分類し、それらの姿勢動作における体重配分値の変化を通して身体感覚を考察する測定様式を確立した 。

  「意欲がある時は軽く感じる」「無気力になると重く感じる」。物質としての体重変化はないのに身体感覚が変化するのはなぜか?こういう疑問からあの大がかりな機械ができて、体癖研究に応用されていったのか・・・。すごい執念だなあと思う。

 また、それが物理的な重心の安定と深く関わっているということが数値化され、実証されたというのは面白いと思う。

 整うと、物理的重心と自身の身体感覚的中心が一致するという話は、私の先生からも聞いたことがあった。無気力な時は、体の偏りで重心が動いて不安定になっていて、安定感がなく動きにくいから体が重く感じるのだろう。

「地に足がつく」と言うが、整うとその通りになって体が安定する。

 丹田に重心が下りていると自然と下腹で呼吸するようになる。「偏り疲労」などと言う時の「偏り」という言葉も本来「重心」を踏まえて使われている。

 しかし、本来あるべき「重心」も、現在、自分の重心がどのような状態なのかも捉えられない人が増えているのが、現代的傾向と言えるだろう。重心なんていうことを感じたこともないかもしれない。

 私の祖父の世代(明治生まれ)は、相撲などを観ている時「あれは腰が高いからだめだ、負ける」などと、土俵入りした力士を見て言ったものだった。小さかった私はその通りになるのを感心して見ていたものだった。

「腰が高い」というのは、足が長くて腰骨の位置が高いということよりも、重心がきちんとしていないので、「はっけよい」の時、ちゃんと腰が下がらない(腰に力が入らない)、という意味だ。気合負けしているのか、不安定だから負けるのかはその時によるだろう。

 重心が動く、ずれる、上がる、下がる・・・というのは整体では大事なことで、野口先生は「重心のずれ」が体癖になるという説明をしている文章を読んだことがある(戦後間もない時代)。

 その身体内部感覚が日本人から失われている現代、体量配分計はもっと活用できるかもしれない(今ならもっと簡単に、コンパクトに作れるのかな・・・)。

(註)体量配分計の詳細については『整体入門』(野口晴哉 筑摩書房)等を参照。