アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

生きている骨と死んだ骨の違い

生きている骨と死んだ骨の違い

 整体の先生が荼毘に付される時、私は葬儀の片づけなどの関係で、少し遅れて火葬場に着いた。そのため、炉に入る時は居合わせなかったのだが、火葬場に着いて待合室に入り、その後トイレに行った時、偶然、焼成が終わった先生のお骨が炉から出てくるのに居合わせてしまった。

 普通、参列者に炉から出てすぐの状態は見せないものらしく、その場には私一人しかいなかった。お骨はまだ頭と体がわかる状態であったが、お骨よりも真っ白な灰の多さがつよく印象に残っている。

 それにしても、あれはかなり衝撃的な光景だった。人間の体を極限まで物質化するとこうなるのか…という感じで、先生の存在というか、気配が完全に滅却されているかのようだった。

その後、参列者が集まってお骨を拾って壺に収める儀式があるのだが、先に見てしまったあの姿が強烈で、「もう、これは先生ではない」という感じが拭えなかった。

 それにしても、なぜあの時、私はあの場に遭遇してしまったのだろう。私は漠然と、先生のはからいのような気がしていた。先生が「生きている体と死んだ体は違う」(野口晴哉)という整体の観方を示されているように思ったのだ。

 生きている体の観察と、死んでいる体の観察。この違いは野口整体と、西洋の解剖・生理学の身体観の違いに通ずる、と野口先生は言う。私の先生も、このことは折に触れて語っていた。

 丹田は死ぬとなくなってしまうが、おそらく硬結も、生体から摘出することはできないし、CTやMRIでも画像は撮れないのではないかと思う(ある医師が死後解剖で取り出したものを「硬結ではないか」と野口先生に見せた、という話は読んだことがあるが、野口先生にも分からなかったという)。

 観察で捉える対象の中には、解剖・生理学的な実体として存在するものとしないものがあって、生きている時にしかないものは、目に見えないし物質として取り出すことができないのだ。生命、気というのはそういうもので、物の世界のことではない。

 私がお骨を見て「これは先生ではない」と感じたのは、そこに完全な物質(ほとんど成分?)しかなかったからで、本当に生命の気配のない無機物、という姿だった。

 そうは言っても、物質だからお骨は廃棄してよいとも思わないが、「その人」というのは物質的側面にあるのではないということに、私は確信を持つようになった。気、生命、潜在意識…という目に見えないものが「その人」であって、その目に見えないはたらきが集めてくる素材?で、身体の物質的側面ができている。そして目に見えないはたらきとともに、動き、変化する。

 そして、生命の核に魂がある、と私は思っている。