先日、京都に行く機会があった。
京都は今、外国人観光客がおらず、ニュースなどで時折見る光景とは全く違っていた。でも、やっぱりお寺などは静かで人もまばらなのが本来の姿なのだと思う。
京都で野口整体と縁の深い所と言えば祇園の建仁寺(臨済宗本山)で、野口晴哉先生存命中は、毎年10月の終わりに高等講習会が開かれていた。二日間泊まり込みで行われ、受講者は広間に雑魚寝したのだそうだ。建仁寺もよく受け入れてくれたと思う。
襖絵を見せるためか、襖が閉めてあったので、講習が行われた場所を見たり入ったりすることはできなかったけれど、私の師匠は野口先生が亡くなる前年、建仁寺で段位を取得したので、ここを訪れることができたのはちょっと感慨深かった。
野口晴哉著作全集の初期論集には、江戸・吉原の花魁が亡くなった時に呼ばれた禅僧が、人々に「柳は緑、花は紅。女は紅を売り、坊主は袈裟を売る。そこになんの違いかある。喝!」と言った…という話が引用された文章があって、私の先生はその話が好きだった。
禅というのは、情よりも自由を求めている感じで、浄土真宗などよりドライな印象だけれど、身分や立場などにこだわらない、さっぱりした優しさがある。
京都では昔、鴨川があの世とこの世の境とされていたそうで、古い日本の他界観では、手つかずの自然界(深い山奥や高山、海)はたましいの世界であり、あの世だった。
建仁寺は祇園の南側にあり、さらにその南には六道の辻というあの世とこの世の境とされた場所がある。山に囲まれた京都では、祇園も建仁寺も、あの世とこの世の境にあり、現世のしがらみを離れられる場という意味で、共通しているのだろう。
あの世とこの世、素人と玄人、貴と賤など、対になるものがあって一つの世界を作っているのが京都の魅力だ。京都の人は表裏があるとよく言うけれど、それは表しか分からない人の子どもっぽい見方という面もあると思う。
昨年、私の知人がネパールでのトレッキング中に急逝したのだが、その人は生粋の京都人だった。今回、雨だったのにあまり苦にもならず、京都の人も町も、前よりも好きだと感じられたのは、彼女のお影かもしれない。