アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

霊動法(鎮魂法)と活元運動

 少し前に、活元運動を指導する会で、参加者から霊動法と活元運動の違いについて質問された。

 その人は神道に興味のある人で、神道系の本に霊動法は「野口整体の活元運動と似ているが違う」と書いてあった、と言った。

 最近、若い人の間で神社詣りなども流行っているけれど、呼吸法などの古神道に伝わる身体技法についての新刊も出ていて、結構よく読まれているようだ。

 以前、私が読んだ霊動法の指導をする人の本でもそうだったが、野口整体の活元運動は、神道系の指導者から上から目線で「違う」と言われることが往々にしてあり、その人の読んだ本のニュアンスもそうだった。

 活元運動は、「鎮魂法」という神道の行法(宮中祭祀にもある)が元にあり、松本道別田中守平という人が、鎮魂法を健康法として再編したと言われる。野口晴哉松本道別に師事していた。

 昭和初期ぐらいまでは、霊動法を指導するいろんな派があって、その治療効果から、医師の中にも推奨する人が結構いたらしい。

霊動法は、最近、平田篤胤(幕末の神道研究家)の弟子で、晩年、伊勢原市大山阿夫利神社宮司を務めた権田直助(元医師)も、霊動法による治療を行っていたそうだ。

松本道別は、霊動は外から神が依るのではなくて、自分の魂が体を振動させるのだと説いた。野口晴哉はそれを踏まえた上で、松本道別以上に近代的な説き方をした。

 それは、野口先生が当時の霊道法の指導者の中では最後の世代で、年齢もかなり若い上、東京生まれだったこと、大本教事件や軍国主義化などで鎮魂法や神道に関することを、気安く語れない時代になっていたことも影響しているかもしれない。

 ともかく、野口整体では活元運動の発動を「霊」とか「神」の存在を措定せず、宗教色を排した説明をするために、神道系の人からは「精神性(霊性)が低い」と見えてしまうということがあるようだ。

 ただ霊動法といっても、どうやって発動させるかなども各派で違うし、どういう指導をするかとか、何を目的とするかでかなり質が変わって来るのではないかと思う。

 こうした事情もあり、霊動法・鎮魂法の指導者が上から目線で「違う」と言っている、という前提で、活元運動はどう違うのかを説明するのはけっこう難しくて、分かってもらえたかな…?という感じを残してしまった。

 これはたしか、河合隼雄ユングだったと思うが、伝統的に神の存在や宗教的世界観の共有があって行われていた治療法が、近代に入って人間対人間で行うようになったのが心理療法というものだ…と説明している文章を読んだことがある。

 そういう意味では、神道系の霊道法と活元運動も同様で、活元運動の指導者にも神様の御威光という後ろ立てはない。

 また野口晴哉は、運動中、良いも悪いも、美も醜も、その人の中(潜在意識)にあるものが出てくるのだと説いた。

 実際その通りで、ただ活元運動をやっていればいいというものではなく、心身両面に出てきたものと向き合い、乗り超えていくことで進歩し、成長する。そこに、自分の責任という問題が出てくる。

 狐(?)とか邪霊のせいにして、それをお祓いで無いものにする(キリスト教で言えば悪魔祓い)というよりも、対話を続けて一緒に生きていく、自分の一部として統合していくのだ。お祓いするとすれば、自分の雑念とか、潜在感情(コンプレックス)である。

 今の古神道各派の指導者に認められているとは言えないけれど、活元運動のルーツに鎮魂行法、霊動法があることは確かであり、私個人は、幕末から明治にかけて、鎮魂法を伝えた人たち、また民俗学的な、一般の人たちの宗教性にも関心を持っている。

 そして、野口整体を実践する人には、野口整体の背景にあるものと、独自性の両方を理解して欲しいと思う。勉強してしっかり答えられるようにしておこう…と反省した。