アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

女である時期―野口整体の更年期観

…若さを保つようにすることは、健康法としてやる以上は当然のこととして錯覚していたのです。ところが永い経験を経ますと、更年期というのは素早く超えて安定した方が人間として完成し、体も丈夫になり、気持ちも穏やかになる、そして肌も一時ザラザラしていたのがそこから急に立直ってきれいになるし、力の残っているうちに早くそうした方が女らしさも失わないですむということが判ってきました。

…女の人にとっては、早く生殖機械という段階から解放されて人間になる方が健康への近道だということが判るようになってきて、最近ではあまり良心の咎めを感じないですむようになりました。

野口晴哉『女である時期』全生社)

 野口晴哉の言葉というのは現在の考え方にそぐわないこともあり(そぐわなくとも真実であることが多い)、説明に窮することもあるのだが、新しい見方を見出すことも多くある。その一つは女性の更年期についての見方である。

 野口晴哉の言う「女である時期」とは性自認云々という話とは関係なく、妊娠可能な時期という意味であり、女の身心の中心は骨盤の動き、生殖器のはたらきにある。先に引用した内容は更年期障害に対する操法(整えるための技術)をどういう方向に行うかという話である。過剰かつ出口のない女エネルギー?の処理の問題だ。

 操法の細かい話は置いておくとして、私は若い時から野口晴哉が更年期を女であることから解放され、「人間になる」という見方をしているところに非常に惹かれていた。これはユングの中年期・老年期の課題と成長という見方にも通じると思われる。

 今、更年期障害は治療の対象となってホルモン補充療法などが行われるようになってきているが、ずっと「若いまま」でいようとすること、若い時のまま変わらないでいることの弊害についてはあまり考慮されていないのではないだろうか。

 私が指導をしている人の中にも40代後半~50代の女性たちがいる。子どもの有無、仕事の有無、それぞれに違うが、次第になんらかの「喪失感」というものが影を落とすようになる頃であるようだ。

 実際には男性も同じ面があるのだが、女性は閉経という大きな変動があるために心身ともに問題が表面化しやすく、命に関わる病につながったりしやすいのだ。

 中にはほとんど変化を感じず若い時と同じように仕事をし、若い時と同じような上昇志向、また価値観・世界観でありつづける人がいるが、本当に若くて元気であることは少なく、体(身体感覚・感情を含む)と意識(頭)が分離している傾向があるように思う。

 その結果、気づかぬうちに病を得ることもある。また喪失感に呑み込まれてしまうのもあまり宜しくない。

 現代の人は若い、昔の老人とは違うとよく言われるが、2019年の健康寿命は男性72.68歳、女性75.38歳で、1970年代の平均寿命がそのぐらいだった。医療技術の進歩を考えると、それほど今の人が若いと言えるのだろうか…と思う。

 また今、日本の農業を支えているのは高齢者だが、今の現役世代はそこまで動ける体を保てる人がどれほどいるのだろうか。

 ぱっとしない話ばかりではあるが、1970年代、野口晴哉が説いたのは健康に生きる上で大切なのは「50代を長くする」ということだった。40代ではないというのがポイントで、野口晴哉は心身ともに成熟する年齢を50代と考えていたのだ。

 ユングも人間は30代までは「生物的段階」であり、その時はそういう時期として過ごせばいいのだが、40才前後から「文化的(宗教的)段階」に入り内面的な成熟へと向かうのが人間の自然なのだと考えた。シュタイナーも中年期以降に霊学が真に必要になるということを言っている。

 この三名の老賢人は、心が深まっていくと身体が老いるとともに物質性・動物性が弱まり、魂が目覚め始める…と言っているように受け取れるのだが、どうだろう。

 少なくとも、女である時期が終わっても、自分のことばかりになったり、がめつくなったりはしたくない。また更年期=更年期障害=辛く苦しいというのは偏見である。これは生理=生理痛=辛く苦しい、不快という固定観念と同様だ。更年期は思春期のように身心ともに変動する時期なのであり、自然に経過する更年期というのもあるのである。

 年齢を重ねていっても、知らないこと・人に心を開き、他者を理解しその感じ方を大切にしていくことができるようになっていきたい。そのために、身心の自然と弾力を保ち、健康な老いと健康な死について、学んでいこうと思う。