アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

集団心理と個の確立

 新型コロナウイルス禍が起きて、いろんな経験をし、学ぶことも多かったが、このさなかに一番考えたのは集団心理(群集心理)の怖さだった。

 これはユングなどの言う「集合的な心(集合的無意識)」とは違い、人は集団になると自分の考えや行動などを深くかえりみることなくいじめや暴力に加担してしまうことがあるが、こういう傾向のことを言う。これは潜在的に同じ潜在感情や志向性を共有する人たちが、共通の場・興奮状態に置かれた時に起こる同調現象のようなものだ。それで行動が全体として均質化していく。

 私は知人にシュタイナーの本をプレゼントしてもらってから、霊学の方面に興味を持ち、グルジェフ(1866-1949)という人を知ったのだが、この人はシュタイナー以上に賛否両論分かれる人で、どちらかというと「あぶない人」と言われる方が多いようだ。

 この人が生きた19世紀の終わりから20世紀の初めは、深層心理学が起こった時期で、第一次大戦や紛争などを通じて、理性に人間の攻撃性や情動をコントロールする力がないことがはっきりした時代だった。

 中世から近代化の過程で、ヨーロッパでも高身長化という体の変化が起こり(昔はあんなに背が高くなかった)、日本でも同様のことが起こったが、これは良い意味のみならず、重心が急激に高くなったことが影響している。

 当時はこれまでの伝統的価値観(宗教性)や身体とのつながりという根を断ち切られ、かつてないほど意識(外界を認識する)を発達させたことで、人々の心身はかなり不安定化し、人間の自然な状態が失われていた。

 それで多くの研究者が集団心理を研究していたようだが、霊学においてもそれが主題となっていた。ユングやシュタイナーも個と全体の問題に対する志向がある。

 グルジェフは、戦争や内乱などの非常時になると表面化する、異常な集団心理、暗示のかかりやすさや自動的に何かをしてしまう傾向に関する研究をした。そして人間が集団催眠に陥ったように判断力を失ってしまうのは「外部からの影響に弱いため」だと考えた。

 そして、多くの人は普段から催眠状態(意識水準が低下した状態)で生活していて、外界からの刺激や影響に機械的に反応していると考えた。自由意思や理性というのは幻想で、暗示にかかったように、個人個人決まったパターンを繰り返しているという。

 この状態から覚醒するために、個々の頭・心・体(思考・感情・運動)に、自発性と調和をもたらすセンターを作る身体技法と哲学をつくり上げた。ことに最晩年は個人的で切実な問題を離れて、思想や理論をやり取りすることはなかったという。

 ただ、グルジェフの思考には当時の時代精神だった「世界は滅亡に向っている」という暗い予感と危機感に充ちていて(現代の日本の気分はこれに近いような気もするが)、違和感を感じるところはある。ここに書いたことは私が拾い読みしたことのまとめで、難解で知られるこの身体技法と哲学をやってみたいとか、そういう気もないけれど、良い悪いとか好き嫌いを超えて、本質をついていると思うところがあった。

 前回、感染症の流行には集団心理的なものが作用しているという野口晴哉の言葉を紹介したが、野口先生は、潜在意識教育の話の中で、人間(特に大人)はいろんな意味での暗示にかかった状態にあって、そこから解放する、自由になることが必要だとよく言う。

 野口整体グルジェフは結びつきがある訳ではなく、無意識、生命にもっと信頼を置いている。でも問題意識としては共通しているところがあるし、集団と「個」の確立という意味でも通じるところがある。

 集団心理的な問題は、家族などの小さな集団でも、大きな組織でも起こりうることで、いじめや職場のストレスなど、個と集団の関係でおこる問題にも関わっている。

集団のなかに置かれると、より自分を見失いやすいタイプの人と、集団心理に抵抗力がある人がいて、さらに集団心理を煽ったり強固にしたりする人もいる。何かおかしいと思いながら抵抗できずに流されてしまう人もいる。野口先生も体癖的な観点からこういう問題を語っている(「家族の体癖」月刊全生など)。

 そういう違いがどこから生じるのかは、はっきりとは言えないし、一定してもいないのだろう。「みんながそう言っている」「普通そうでしょう」と思う傾向がある人の方が、集団心理に抵抗力が弱いとは思うけれど。

 これは判断基準が自分の内側にあるか、外側にあるかの違いで、これには、丹田に自分の存在の中心があるか、ないかも関わっている。

 個人指導の意味を考える上でも、もう少し深めていこうと思う。