アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

もう一回、シュタイナー『神智学』

修行における「信」の問題 

 先日、シュタイナーの『神智学の門前にて』をプレゼントしてくれた人が、今度は『神智学』(シュタイナー著、高橋巌訳)の文庫を送ってくれた。お礼のメールも後回しに早速読み始めてみると、前回の本より密度が高く、全体の感想をまとめられそうもない…。

 でも、今、思ったことだけを書いておこうと思う。この本の、霊的認識に至る過程(修行)についての章で、シュタイナーは次のように述べている。

 盲目的信仰をもて、というのではなく、霊学的思考世界を、信、不信に係わりなく、ただ受け容れようとする態度だけが、高次の感覚を開くための前提となる、というのである。

 霊学研究者は弟子に次のような要求をする。-「私の言うことを信じなくてもよいが、それについて考え、それを君自身の思考内容にして見給え。そうするだけで、すでに君の内部で、私の思考内容が生きはじめ、君はその真実を自分で認識するようになるだろう。」

  この『神智学』中でも、霊的感性を啓く上では感覚や感情、神秘的沈潜(瞑想のことか)が大切で、思考は役に立たないという人が多いとシュタイナーは指摘している。

西洋人は自分の中を整理し、自分を方向付けていく思考が得意なのかと思ったら、そうではないようだ。そして、前回頂いた『神智学の門前にて』には次のようなくだりがある。

  霊的な発展に努力するものは、なによりも、つぎのような利己主義を追い払わねばならない。「ほかの人が霊的なことがらを語っても、それをわたしが自分で見ることができなかったら、それはわたしにとってなんの助けになるだろう」と、いってはならないのである。

 そのような発言には、信頼が欠けている。修行者は、すでに霊的発展のなんらかの段階に達している人を信頼しなければならない。人間は共同して働いている。一人がほかの人以上のことを達成したなら、それは、自分自身のためにではなく、ほかの人すべてのために達成したのである。そして、ほかの人々はその人のところに集まり、その人の語ることを聞く。そうすることによって、自分の力が高まり、その人の語ることを信頼することによって、聴衆はみずからも知者になっていく。この一歩を歩むまえに、第二歩を歩もうとしてはならない。

  こういう文章を読むと、シュタイナーも人を指導していく上では苦労したんだな…と思う。自分にはまだわからないこと、感じられないこと、見えないことを説かれたら、それをまず信頼し、分からないままお腹にいれておく。そして自分で反芻しながらわかるのを待つ。

 こうしたことは、日本の伝統的な文化の中では当たり前のことであったのに、それができる人は少ない。まず最初の「信」がないのだ。私の整体の先生も、理論的説明を尽くすなど、努力を重ねていたが、この点では絶望していたと言ってもいい。

 これは今思うと、野口晴哉先生も、生前同じ思いだったのかもしれない。

 お盆には亡くなった人の魂が帰ってくると言われる。日本人の他界は西洋よりも近いところにある。日本の神様はキリスト教の神ほど人間に興味がないけれど、亡くなった人が生きている人をじっと見守っている、という他界観である。

 私の先生は、野口先生は亡くなる一年ほど前から、本部の講義ではよく「これからは気の時代に入ります」と言っていたと言い、亡くなる直前(1976年6月22日没)、箱根での中等講習会(5月末)では、「これからは気で教えます」と言った、と話してくれた。

『神智学』を読みながら、野口整体のことなんか考えているから感想が書けないのかもしれないが、気のこと、潜在意識のこと、霊、魂のこと、様々な面で私を揺さぶる本であることは確かだ。

 いい本は、筆者が自身の世界を開いて見せてくれ、本心で語りかけてくる。まるで声が聞こえてくるようだ。私は心を開いて、シュタイナーの言葉を聴こう、という気持ちで読んでいる。

 そんな「いい本」をプレゼントしてくれて、ありがとう。