アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

トイレで「仏さん」に会う

トイレの中の禅

 高校一年生の学年行事で、静岡県袋井市にある可睡斎という禅院で三泊合宿をした時のことがあった。当時、可睡斎で私たちが泊まった部屋は本当に質素で、食事も一汁一菜の精進、お喋り禁止、沢庵で茶碗を洗うお作法を教えられた。

 しかし、トイレ(東司)は、本当に贅を凝らした造りで、広くて、寄木の床も何もかも磨きぬかれていて、見たこともないほど美しいトイレだった。

(註)一九三七年建築の瑞龍閣にある。当時最新の水洗和式。

可睡斎は六百年余の歴史を持つ曹洞宗の古刹で、修行道場。明治初期、神仏分離によって秋葉大権現三尺坊の御真躰も祭られるようになった。

 私はそれを不思議に思い、合宿最終日にトイレから出た時、袈裟を着た僧侶にばったり会ったので、「どうしてこんなにトイレがきれいなんですか」と質問してみた。

 その初老の僧は、「部屋も飯もみすぼらしいのに、何で便所はこんなにきれいかと思ったんやろ」と言って笑い、「便所はな、仏さんと出会うところや。誰でも用足すときは仏さんに会っとるんだ、だからきれいにしとくんや」と教えてくれた。今思うと、作務衣ではなく、その日は袈裟を来た僧を何人も見かけたし、関西弁だったので、可睡斎の僧ではなかったのかもしれない。

 昔から祖父の家や実家のトイレにはお札が張ってあって、烏枢沙摩明王がいることは知っていたが、その言葉を聞いて以来、私はトイレで用を足すことの意味ががらりと変わり、心を落ち着けて用を足す、という習慣が自然に身についたのだった。

 後に野口整体を学び、あれは私の「禅との出会い」だったんだな、と思うようになった。本当に、内なる自然が働く排泄時だけは、皆「無心」になることができるのだ。嫌な気分になったり、落ち込んだりした時も、トイレに行くとふっと緊張が弛む。内なる「仏さん」に出会うことができる。

 特にしゃがむ姿勢は、頭の緊張が弛み、重心が下がって腰(腰椎四番)が働くので、用を足す型として非常に良い。西洋では、ギリシア時代から腰掛ける型だというが、東洋では用を足す時、しゃがむ姿勢を取るのが伝統的・普遍的な型だ。

 しかし、今は小学校でしゃがんで用を足せない子どもがいて、練習させることもあるという。整体的には「しゃがめない」というのは腰が硬い、重心が高いということなので(体癖が開型の人は一番下までしゃがもうとするとひっくり返ってしまうので除外)、トイレは洋式になってもしゃがむ姿勢は時々思い出して、やるほうがいい。

 以前、バラナタティアムというインドの古典舞踊を観た時、最初に蹲踞(そんきょ。力士が土俵でとるしゃがみ姿勢)の姿勢を取ってから始めたので驚いたことがあったが、しゃがむ姿勢は東洋の心と深い関係があるのだと思う。

 ちょっと脱線してしまったが、トイレに入ったら天心にかえり、内なる自然がいつも自分の中にあることを感じてほしい。これも整体生活、である。