正坐ノスゝメ
野口整体では「型」の基本として「正坐」があり、活元運動、愉気、操法、多くの場面において問答無用で正坐をする。そのように決められているからというより、正坐でないとできないのだ。
野口晴哉先生は昭和の初めから「正しく坐すべし」と正坐を勧めているが、web検索してみると、正坐が正式な坐法と定められ、正坐という言葉が定着したのはけっこう新しいことのようで、1941年に当時の文部省が定めた・・・などという記述が出てくる。
確かに私の実家のある地方では、年配の人は「正坐」ではなく「かしこまる」と言っていた。「畏まる」という意味だろう。もともと、正坐は日常の坐姿ではなく、神や仏の前で手を合わせる時の姿だったという。
縄文の土偶や古墳時代の埴輪、神像などに正坐が見られ、おそらく名前もなく非言語的に伝わっていたのだろう。日本人が神仏への「畏敬」を表現する時、身体的に正坐とい う形を取るのだと思う。
私は学生の時、上代文学(万葉集・古事記・日本書紀の時代)を勉強しており柳田国男や折口信夫を読んだことがある。そしてアイヌと日本人は民俗学的に非常に近いことを知った。
アイヌの助産と治療についての本『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ』(青木愛子・長井博1983年)にある写真では、アイヌの神儀においても正坐をしており、助産の際の基本姿勢も正坐だ(大正三年生まれのおばあちゃんは学校教育を受けておらず文盲に近い)。
アイヌにとって助産や治療は神(カムイ)を前にしての神聖なわざだった。野口晴哉先生は「整体操法は生命に対する礼である」と言ったが、これは整体操法の型としての正坐、また活元運動の際の正坐を考える場合、非常に興味深いと思う。
正坐の良さというのは、実は「何も考えない」、整体で言う「頭がぽかんとする」感じに近い状態になる点にある。頭がすっきり、意識がはっきりするのだ。
ただ、関節可動性(仙腸関節、股関節、膝、足首など)が硬張っていたりするとつらいし、重心が高いときちんと腰が下りないのでよけいに疲れてしまうのも確かだ。でも、「文部省が一方的に決めた無理な姿勢」と片付けてしまうことはあまりにも勿体ない。
いつか読んだ月刊全生では、野口裕介先生か裕之先生のどちらか(失礼で申し訳ありません)が、お風呂(バスタブ)の中で正坐をする練習を勧めていた。
私がやってみたところ、これは良い練習になる。浮力で足が痛くなることなく、正坐の良さが味わえる。お湯はちょっとぬるめ、量は少なめの方が良い。
そして今、日常生活の中では椅子に腰かけることが多いので、まず座骨を座面に着けて坐ることから取り入れてみると、正坐がしやすくなる。
坐る時の焦点は坐骨にあって、まず床に足を投げ出して坐り、体重をゆっくり左右にかけて坐骨の位置を確認し、覚えておく。それがいつも座面につくように坐る。
こうして、肩の力を抜いて、背骨が骨盤の上に立つように気をつけていると、自ずと腰で体重を支えるようになり、重心が下がってくる。
こういう実践をしつつ、正坐をすると、正坐の良さ(頭すっきり)がだんだん味わえるようになると思う。
短い時間でもいいから静かに坐る時間を持つのはとてもいいことで、特に眠る前に目を閉じて正坐すると、忙しく働いていた頭が静まって瞑想になり、熟睡しやすくなり、二度寝予防にもなる。
また、食事の時も坐骨を意識して坐ったり、正坐をしたりすると食べ過ぎ予防になる。頭がすっきりすると味がよく分かるし、腰のはたらきでブレーキが利く。
ちょっとhow to的になってしまったが、、座骨と正坐から「体から心へ」の扉を開いてもらえたら・・・と思う。