アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

本来の体育―生活している身体とスポーツする体

身体感覚が退化しつつある現代と整体

 私は1970年代前半の生まれだが、小学校6年生の時、担任の先生から「転んだ時、とっさに手をつくことができない子どもが増えている」という記事が新聞に載り、問題になっていると聞いた。

 この先生は体育の時間に演劇の身体訓練や野口体操(野口整体ではない)をやったり、相撲やSケン、馬飛びなど、体を使った遊びを体育に取り入れたりする先進的な先生であったので、そんな話をして下さったのだろう。

 そして私たちはおそらく、体育で「転ぶ練習」をした始まりの世代だったと思う。少し前の世代まで、意識されることもなく子ども同士の遊びの中で身につけていた「当たり前」の身体能力、身体性が育つ環境が子どもの生活から失われて始めていた。

 2000年に斎藤孝氏の『身体感覚を取り戻す』『自然体の作り方』などが出版され、身体の問題が注目されるようになった。しかし今、さらに深刻化し、体育そのものを根本的に考えなければ健康維持や社会生活にも影響する段階に来ており、「体ほぐし」「体あそび」をもっと体育の時間に行なうのだという。

 スポーツの世界では、世界に通用する選手が次々と現れ、日本人の身体能力は向上していると思う人もいるかもしれない。しかし、競技スポーツの世界と、一般の生活世界でのことは違う水準の話として考えなければならないことだ。

 しかもこのような身体能力がなくとも、頭だけ使って受験勉強をする上ではあまり問題にならないので、どれほど深刻な問題なのかは、本人が大人になってからでないと自覚できないのだ。

 余談だが、私は中学3年の時、スポーツは全く苦手で走るのも遅かったが、全学年で2000m級の登山をした時は2番だった。1番は野球部のエースだった男の子で、私を必死に追い抜いたのだった。

 私は彼に抜かされるまで自分が一番だということに気が付かず、頂上で彼に不思議な動物を見るような目で見られたことを今でも覚えている。3番はずっと後に到着し、やはり野球部の男の子だった。

 私は小学校6年位の時、祖父に「体育は苦手でもいいが足腰は鍛えなければならない」と言われ、普段、階段の上り下りなどは足腰に負荷がかかるようにするなど気をつけていたが(校舎は四階建)、だんだん足腰のばねが出てくるようで気持ちが良かった。そのことと体癖特性(骨盤部が強い)の両方があったと思う。スポーツ技能とは違う身体能力(日本的足腰)というのもあるのだ。

 話を元に戻すと、競技スポーツの身体訓練ではない、健康のための運動、体を育てるという意味の「本来の体育とは何か」という問題は野口晴哉先生が取り組んできたことだ。

 スポーツが悪いというのではなく、スポーツ技能とは違う身体能力があり、それが健康保持のため、また生きる上で必要なのだ。その中心にあるのが身体の内側を感じる「身体感覚」である。

 生理学的に言うと、身体感覚は「体性内部感覚」と「四肢の運動感覚」の二つの総称で、全身内部感覚とも言う。

 身体感覚は体の状態を自覚するための感覚であると同時に、裡から発する動き(感情・要求)を自覚するためにも必要不可欠で、身体感覚は「体の言葉」と言えるものだ。

 始めは快・不快のみだが、それが分化し発達していくことで自分という存在の基盤となる。

 外界を捉える外界感覚(五感)も大切だが、それが正常かどうか(鈍りと過敏・感受性にゆがみや偏りがないか)の吟味は身体感覚による。

 自分が何を感じているのか、まず、落ち着いて自分の内側に注意を集めること。良い悪いとか、環境や他人のせいではなく、自分を内側から把握すること。それが「自分の体を整える」始点にある。 

(註)身体内部感覚(身体感覚)

  • 体性内部感覚 皮膚感覚・平衡感覚・内臓感覚(内臓→脳へ)・深部感覚(体の各部分の位置、運動の状態、体に加わる抵抗、重量を感知する感覚)
  • 運動感覚 体性神経の中の求心性回路(筋肉・腱→脳へ)