アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

体癖―要求と行動

体癖と人間の自然

 これまで二回ほど「体癖」について書いたが、最近、精神科医や心理学者の先生が書いた体癖についての本が出ており、以前に比べると「体癖」も知名度が上がってきたようだ。

 自分の体癖が分かると興味も出てくるし、人間観察としての体癖はやっぱり面白い。しかし、最初の「つかみ」は良くても、実際に人間の中で動いている体癖を観るのはそれほど簡単ではないし、相手を理解するとなると身近な人ほど難しい。夫婦喧嘩の時、体癖を攻撃材料にしてしまう人までいる。

 体癖の中心にある主なものは「要求を実現する運動の様式」だ。野口晴哉先生は要求とは生命であり、生命の方向に個性がある。これをまとめたのが体癖特性だ、と言う。

 食べる、という要求は誰にもあるものだけれど、例えば煮物・焼魚・ごはん・味噌汁・漬物がテーブルの上に出されたとする。

 野口先生は九種体癖のある人は「料理にこもった心(気)」をまず感じるという。そして実際に食べる段になると、二品あるおかずのどちらかを全部食べてからもう一品を食べる。同時進行で少しずつ順番に食べるということはない(気取ってそうする場合はある)。

 ひどい時は、テーブルの上に載っているものを一つずつ片づけていく。煮物、焼魚、ごはん、味噌汁、漬物という感じだ。まるで懐石料理のように一つのものに集注して食べる。それでいて丼物のようにひとつにまとめて盛られるのは嫌なのだ。しかも食べるのに速度があり、ものも言わずに食べてしまう。

 このように「食べる」という要求を実現するための運動には、人によって特徴があるのだ。さらにその運動(食べ方)の奥には九種体癖の「集注する」という要求があって、集注することで充たされる。

 だから母親が三種体癖のある人だったりすると、九種の子どもの食べ方が異様に見え、食べ方を変えさせようとすることがある。

 そうすると子どもは集注できないので、不満で食欲が失せ、食べることに快感がなくなってしまう。こうして要求と行動が離れ、食を乱してしまうこともある。

 今、私が出している例は些末なことだけれども、現実にはいろんな場面でそういうことがあって、要求が自然に行動になるというのは意外と少ないものだ。

 それに、要求は、体が偏ると過剰になり、要求を充たそうとする手段が歪むこともある。九種の食べ方も、注意が集まらない状態で作った料理を拒絶したり(作る側にも体調があることを忘れる)、体が偏ると過剰な速さで食べてしまい、味がよく分からないということもある。また要求を感じても、それに背いたり行動に移せなかったりすることもあるし、分からなくなってしまうこともある。

 体癖に「体癖修正」がつきものなのはそのためで、何種と判断しタイプ分けしたり、何種の人はこうです、と対処法を決めるために体癖があるのではない。

 体癖を学び始めた頃、「体癖は人間の内と外をつなぐ着手の処である」という野口先生の言葉にはっとした。要求と行動、どちらにも乱れや偏りがなくなれば、要求と行動は一つになり、裡の自然を、調和を保って外に実現していける。

 体癖修正は、体を整えるということなしには不可能なので、一般書でそこまで踏み込むことは難しいのかもしれないが、「人間の自然」は抛っておいては保てないということも、知ってほしいと思う。