アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

酒・煙草・悪癖

 今、喫煙というのは文字通り「煙たがられる」行為になっているけれど、野口整体の指導をする人には煙草を吸う人がわりといる。

 それは野口晴哉が喫煙者だったせいもあるかもしれない。私の師匠も若い時、吸っていたそうだが、私が入門した時にはもう吸っていなかった。

 先生が煙草をやめたのは、ある金銭問題に苦しみ、先生の家族が若くしてがんを患っていた(亡くなった)苦難の時だったという。「このまま吸っとったらわしは死ぬな」と思ったからだ、と言っていた。先生はお酒を全くと言うほど飲まなかった。

 私自身は煙草も吸っていないし、お酒も飲めない体質だけれど、野口整体的にはお酒も煙草も「健康のためにやめなさい」と言うことはない。

 むしろ、お酒や煙草を嗜みつつ、その時々の身心と酒・煙草の味・酔い・量などの変化を通じて、体の声を聴くこと、足るを知ることを教える。

 ユングの弟子で、愛人だったトーニー・ヴォルフという分析家はヘビースモーカーで、ユングは禁煙を勧めたことがあったが、彼女は「人間には悪癖が必要なのよ」と言った。それを聞いたユングも最期まで喫煙を続けたそうだ。

 悪癖というのは酒・煙草以外にもいろいろあって、私もご多分に漏れずあるけれど、悪癖は意識水準が下がることで無意識がふと表出され、本音が出たりする通路や窓にもなっている。トーニー・ヴォルフはそのことを言ったのだろう。そういう意味では無意識の抑圧を防ぐ意味があるとも言える。

 ただ、昔、徳島で阿波藍作りをする人に聞いたのだが、藍を作る職人は、酒・煙草の味を覚える前に、藍の発酵過程を舌で(なめて)覚えさせたと言う。その人も中学生の時、父親からそのように教えられたそうだ。

 だから純粋な体の感覚、外界の刺激を感受する外界感覚にとっては、酒・煙草には鈍くする要素があるが、整体で言う感覚の敏感さというのは、そういう意味だけではない。

 快不快(好き嫌い)に振り回されず、自分の客観的基準として感覚を使うとか、自分の潜在意識に気づくという面が大切で、そういう自分の心とつながった、より内的な身体感覚は大人の体にならないと出てこないのだ。

 私自身は飲めないけれど、人とお酒を飲む時の打ち解けた雰囲気は好きだし、ご飯を食べる、というのではないお酒と肴の美味しさというのもあるだろう。一人で愉しむお酒というのも悪くないと思う。だから何だか損したような、うらやましいような気にもなる。

 それに、私は煙草を吸っている人を見るのが嫌いではない。最近、喫煙所は隔離されているのであまり見ないのだけれど、なんだか弱さをさらけ出しているような、裸のその人を垣間見るような気がすることがある。

 煙草をおいしそうに吸っている人というのを首都圏ではあまり見ないが、おじいさんおばあさんがゆったり一服しているのを見ると良いなあと思う。

 マナーはもちろん大切だけれど、「悪癖があるのが人間だ」という緩さも切り捨てないほうが、大人文化ではないだろうか。