アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

心的孤立と感情の停滞

健康に生きる心

 私は野口整体がもつ智慧の中で、今一番必要なのは、また積極的に伝えていきたいのは、潜在意識に関わることだと考えている。人間にとって一番大切で取り換えのきかない健康というものを保持する上で、潜在意識がどれほど大切なのかを、実感として捉えられる人はごく少ない。

 ストレスという言葉だけが独り歩きしていて、それにどう対するかといえば、結局薬で症状を抑えることで「コントロールしている」と思っているだけだったり、ストレス発生の元となる逃げられない人間関係を、頭で解決しようとしたりしていることが多いのだ。

 野口晴哉先生は、関係性の中における個人という視点から、人間には「対話の要求」があることを説き、晩年、潜在意識教育の中心的問題としていた。

「対話」とは単なる会話と違い、「心が行ったり、来たり」することを意味する。整体指導の観察で、身体に触れることも対話である。それで人とつながり(関係性)ができることによって心は安定する。

 感じているが言葉にならない、まとまった感情にもならないことこそが本当に訴えたいことであって、言葉で訴えることができるのは表面的・二次的なことで、裡で本当に感じていることは訴えられない。

 その訴えたいのに表現できない感情を、痛み、凝り、歪み、また病症として身体上に表現している。対話の要求が充たされないから、体で、訴えている。

 対話の要求があるから、それができないことが問題になるのだ。

 野口先生は次のように述べている(心の問題)。

 健康を保つという面からみれば、その複雑な心によって自分の体を壊し、その能力を抑えつけるような生活をしている。自分との対話をしても、自分の力を発揮し、元気を出させる方向の対話ではなく、いよいよ自滅するような方向に引っ張っていく場合が少なくない。

…笑う時に笑って、泣くときに泣いて、それで無事でなければいけない。そういう世界を作らなくてはいけない。ともかく人間は、自分の複雑な心で、かえって自分の生命を保つことを疎外している。

  ここで野口先生が言う「心」とは、潜在意識のことである。相手が言葉(現在意識)で訴えていることを聞きつつも、身体が表現している「潜在意識での訴え」を観察する(受け取る)ことが「観察」なのだ。

 指導に来た時、また普段の生活においても人というのはいろんな表情、振る舞いを見せる。それは自分以外の人に対する表現であったり、気張りであったりするが、それが伝わらないと寂しさや不満を感じる。

 こうしたことが素直に出ている人は正直なのだが、言葉や表向きの顔では楽しくやっている、うまくいっているということを振りまいていても、背中の表情は鬱的だったり、体を歪め耐えていることもある。

 多くは自分でも気づいていないので、あながち嘘だとも言えないのだが、内と外の違いが大きいほど、身体的な停滞、偏りが強くなることは確かである。

 自分に対してもいつも正直であるわけではなく、本当は「自分にも非がある」と気づいていながら「正しい」と我を張ったり、言い訳したりすることがあるし、怖いのに「怖くない」と虚勢を張ったりする。

 こんな時は、意識以前の心が「孤立」を感じている。家族や友だち、職場の人などがいるとしても、心で孤立を感じているのだ。これは社会的孤立ではなく、「心的孤立」である。

 自分の中で起きていること、つまり、人間の生命とつながった心(本心・要求)と、知識や頭にある心との統合が揺らいでいる、分離があるということである。

 形の中にその人の本心があり、同時に日々の情動による変化が表れている。それは、眼だけではなく、手からもひしひしと気が伝わってくる。それを気を通して受け取っていく。無心であれば、相手のそのままを受け取ることができ、確かなものが観える。

 こういうことが整体指導での観察で、自分の体でこれを受け取ることができるように、無心を訓練していく…というのが、修行。

 やっぱり、健康には「澄んだ心」が一番、ということだ。