アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

活元運動の意味

 私がなぜ活元運動の前に行なう体操を考え始めたかというと、私が整体の先生から学んだ個人指導のあり方と関係がある。

 私の整体の先生は、若い頃はやっていたようだが、後年、活元運動の会をやっていなかった(奥様が今から15年程前から始めた)。その代り、個人指導の中で活元運動が大きな役割を占めるようになっていった。

 大雑把に言うと、全体に愉気を基本として、身体から(気を通して)心情を読む観察、心理療法的な対話、骨盤部を中心にした操法を通じて、活元運動が闊達に出る身心に導き、腰が入る状態で終わる、というのが先生の個人指導の型だった(もちろんこれ以外の形もあったが、およそ)。

 身心共に深く関与して活元運動を誘導する先生の指導によって、私は活元運動の本物の領域と質というものを知ることができたが、先生にも悩みがないわけではなかった。そうやって相手に深く関わり活元運動を誘導することで、「活元運動は先生が出るようにしてくれるもの」と思うようになってしまう傾向があったのだ。それは活元運動の本来の精神からは外れた理解だった。それで、先生は晩年、身体感覚を高めることと、瞑想的な意識を深めること、無心・天心を活元運動の目的としてよく話すようになっていた。

 私は先生の個人指導を受け継ぐことは早々に確信していたが、活元運動の会はどのようなあり方がいいのか、については、あまり理想を持っていなかった。

 しかし、平均化体操の会の一週間ほど前にあった個人指導で、私は「先生(私のこと)がいてくれるから安心して活元運動ができるし、誘導してくれないとできない」と言われてしまった。その人は「一人でやると運動が出るのが怖い」とも言った。私ははっとして言葉に詰まってしまった。

 その人には腰椎の軸がないし、頭が過敏で身体感覚が鈍く、身心の統合性は低い方だから、必要な活元運動が出るようにするにはかなり関与しなくてはならない。でもそうすることで、その人と活元運動の関係が本来のあり方から離れてしまうことがあるのだ。私の個人指導は先生の型を踏襲しようとしているから、進歩といえるかもしれないけれど、先生と同じ課題にぶつかったと思った。

 そして、私は「活元運動の会をやろう。自分にとって意味があると思える指導のあり方を考えよう」と思った。それで、「出待ち」をしている間に、自分が途中で投げ出してしまった、身体感覚を高めるための体操を考えようと思いついたのだった。

 

 私はちょっと前に「どうやら私は平均化体操に動かされているようだ」と書いたけれど、ここまで書いてみて、それは「自分の課題がはっきりしてきた」ということなのだと思った。まだちゃんとできるわけでもないのに、なぜそうなったのかまだよく分からないのだが、そういう気がするのだ。

 先生が亡くなるという、私にとっての非常事態と言える「時」が底にあるのかもしれないし、これからどうなるか分からないから、まだ誰にも話す気にはなれない。でもこの頃、よい空想ができるようになってきたと思う。