アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

通う価値あり?

 先日、野口整体をやっている方から「平均化体操の会って、遠くから通う価値ありますか」と聞かれた。確かに私はけっこう遠くから出かけているけど、私の整体の先生の道場(私はその付近に住んでいる)には、首都圏から個人指導に通う人がほとんどだったし、本当はそれほど遠い感じはしていない。

 その時は、「それはまだ分かりません。でも遠くから行くほうがご利益があるかな?(お伊勢詣りや善光寺詣りみたいに)」と冗談にしてしまったけど、なかなか答えづらい鋭い質問だった。

 効能という意味で言えば、それは野口整体の活元運動その他すべてに言えることだけど、「人による」のだと思う。その人が何を求めているかによるということだ。マクロビオティックやヨガなど、健康にいいといわれるものはいろいろあって、整体をやっている人はそれ以前に何かをやっていた経験のある人も多い。

 そのいずれも、だいたい意欲的に取り組んでいる最初のうちは、一定の効果を上げることも多い。でもだんだん熱が冷めてきたり、慣れて刺激が薄くなったように感じると、効能も大したことないような感じがしてくるのだ。だから意外と続くものというのは少なくて、人間関係などが続いている理由だったりすることもある。

 私は野口整体を始めて16年ぐらいになるけれど、平均化体操を始めたきっかけは、整体を見つめなおすためかもしれないし、整体と自分の境目がよくわからなくなって、整体からちょっと離れてみたかったのかもしれない。整体を通して、死というものに年齢不相応に近づくことになって、圧倒されてもいたし、大切な人を亡くして、私はちょっとこの世から離れてしまったような気がする。

 私が平均化体操の会に来始めたのは、整体に問題があると思ったからではないし(整体をやっている人には多少問題あると思うことはあるが)、今の私にどういう価値があるのか言えるはずもない。ただ生きている体と、それの持つ熱とエネルギーを改めて実感できると思う。私にはそれが一番必要で、それに応えてくれている。それに観察する立場に立たなくていいというのが、自分にとっては解放感になっている気がする。

 参加者それぞれに、何かを求め、得るものがあるのだと思うし、それは多様だと思うけれど、自分が何を求めているかは、はっきりさせていくほうがいい。最初とその後では要求も変化していくけれど、体という無意識に取り組む時には、大切なことだと思う。