アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

一人称の背骨

 活元運動の前に基本の運動をやるようになって数日が経ち、私はなぜ平均化体操をやっているのかな・・・と思い始めた。

 整体馬鹿の不純な動機としては、「野口整体をやってきた(と思っている)自分」を客観視したい、というのがあるかもしれない。活元運動というのは、やはり私にとっては「聖域」※であって、たとえ孫の平均化体操といえども!ここは安易につなげるのは嫌だと思っていたのが本音だし、整体の先生の影響もあるかと思う。

 でも、やってみると、活元運動そのものが影響を受けることが分かってきた。基本の運動は随意運動だけれども、深部(骨)に届くはたらきがあるのだろう。それは、私が活元運動の会を捉えなおすことにつながっている。

 

 そして昨日は基本の運動の後、右手の小指に軽い痛みと痺れを感じ、その後親指にも感じた。整体では手に現われる変化に注目するのだが、小指は多分、今月の月経が二日遅れたことに関わっていて、今、終わりに向かっているのでそれが出ているのだと思う。

 親指については、整体の先生が若い時の講義ノートに次のように書いてあった(愉気によって手に現われる変化についての記述)。

 

 自分の考えで、体の全体、筋肉(手や足)が自由に動かないような時に親指が動く。

 

 これは「こうしよう」という意志が、背骨に伝わって運動にならない状態(鈍っている)にある人が、愉気に感応すると親指が動く、という意味なのだと思う。

 実は昨日、先生が亡くなったことを伝えようと思いながらしていなかった人に電話した。そのことがきっかけで、5年前に会って、一度ゆっくりお話ししてみたいと思っていながら、行動できずお会いできなかった人とお会いしてお話ができる運びとなった。

 これにはちょっと感動していて、親指に異常感が出てきたのは、動けなかった、行動できなかった自分がちょっと動き出した・・・ということではないか?「心でも体でも、異常を異常と感ずれば治る」!そう思いたい・・・。

 

 ずっと以前に、ジョン・レノンがインタビューで「一人称の曲(Iで歌う曲)が好きだ」と言っているのを読んだことがあって、それが印象に残っている。

 この表現で言えば、「私の背骨」という一人称の背骨、単なる解剖学的な「脊椎」ではなくて、私の心と体の中枢としての背骨が、どのような状態にあるのかを意識化するということかな。

 この「意識化」というところに、基本の運動の魅力があるように思う(今の自分にとって、という限定付き)。一人称の背骨の動きを感じることで、自分が何かを気にして、何かを怖れて動けないことに気づくようになる。天心を、自然を失っている自分に気づく。

 こういう時、想起するのはやっぱり野口晴哉大先生。引用して終わろう。

 

・・・私が無心とか天心とか言っていますが、赤ちゃんにそんなものは求めないのです。・・・大人が天心になるのは大変なことです。それがもし赤ちゃんと同じ天心になったとしたならば、大人は俗心を超えてきたのですから、鍛錬されぬいた天心です。だから赤ちゃんの天心には自然を観ないが、大人の天心には私は自然を観るのです。自然というものに私は、そういう鍛錬しぬいた一点というか、何かそういうものを観ているのです。だから大人が無心になれば、根性の悪い人が天心になれば、それは見事なものです。

…人間の体で一番健康状態に関連があるのは体の弾力であります。つまり体や心に弾力を持っていないと体の自然の状態といえないのです。硬張って、歳をとって死ぬのも当然だけれども、生きていくという面からいうと、硬張っていくのは正常ではないのです。それで体の弾力を、或いは心の弾力というものをどのような状態でも持ち続けるということに於いて鍛錬という問題が出てくるのです。大人になって天心を保つのは鍛錬が要る。いろいろな問題があって、自然の気持ちを保てないような状態のときにでも尚保ち続けるというのはやはり鍛錬です。

野口晴哉「大人の天心」月刊全生)

 

※活元運動を誘導して本物と感じる運動が出ると、これは本当にその人個人のもの、その人の奥底から発動し中枢が動いているという「畏れ」に似たものを感じる。聖域とはそういう意味でもある。