アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

初冬の身体と抵抗力の発揮

 先日、活元会に私の師匠の本を読んで、講座を受けたいと思った矢先に亡くなっていると知った…という人が参加してくれた。このところ、先生の指導を受けたことがある人と知人が知り合いだと分かったり、何となくそういうことが続いている。

 今でもそうやって先生のことを憶えていてくれる人がいるというのは本当に嬉しいし、先生の気の力に改めて感じ入る。もっと前だったら「生きていればよかったのに」と思ったり、悲しくなったりしたかもしれないが、そういう感情はもうない。そんな自分にも、改めて気づいた。

 それにしても、前回のブログは何が言いたいんだか分かりにくいことを書き放してしまったなあと反省。すると偶然その日の午後、ワクチン・検査パッケージについての記者会見があり、尾身氏がヨーロッパやアメリカの政府の態度よりはまともなことを言っているのにちょっと安心した。

 私の知る保健所の職員は、新型コロナワクチンは保健政策ではなく経済政策になっていると嘆いていたが、日本はこれでもまだましなのかもしれない。

 しかし今、ヨーロッパ本土のみならず、接種率9割のアイルランドでも感染が再拡大しているという。昔、ラオスへ行く前に、マラリアのワクチンのことを調べたのだが、当時のマラリアワクチンは悪評高く、感染防御率は60%代、しかし副反応が起こる率は高く、かつ重いという代物だった。結局私は打たなかったが、あのマラリアワクチン並の出来なのだろうか…。

 ともかく、新型コロナウイルスのワクチンは集団免疫のためではなく、医療崩壊を防ぐのが第一の目的であることを改めて確認してほしいと思う。

 それから前にも書いたインフルエンザだが、南半球のオーストラリアなどでは流行しなかったが、インドやバングラデシュでは流行したのだそうだ。インドは4~5月に新型コロナが相当ひどい状態になったが、その後収束に向かい、現在、国民の抗体保有率は97~8%だという。(現在のワクチン接種率28.4%)

 結果的にインドはワクチン頼みではなく、人類がこれまで繰り返してきた古典的な?手段で新型コロナウイルスと共存していると言えるが、コロナ独り勝ちが破れた故にインフルエンザが流行したのかもしれない。さて、冬本番に入る日本はどうなるのだろう?手足口病は子どもの間で流行しているが…。

 整体の立場としては、何はともあれ体の乾燥に注意してほしい。ワクチン打てばいいというものではないし、感染症はCOVID-19だけではない。具体的には、

・唇や口の周りが乾く

・唾液が少ない(口中が乾く感じ)

・皮膚がなんだかかゆい

・小水の色が濃い(赤味がある)

・排尿回数が多くて(頻尿)常に出たいような気がする(残尿感)

・体がむくみっぽい

・喘息みたいな咳が出る

 今、こういう傾向がある人は、残念ながらもうすでに体が乾いている上、体が水を吸収しにくい状態になっていることが多い。こうなったら水を飲んでも素通りである。温かい水分の多い食べ物(おでん・鍋・おかゆ・汁物・麺類など)の方が吸収が良いので意識的に取り入れて頂きたい。

 野口晴哉は11・12月には温かい水分の多い食べ物を、ストーブを焚く1・2月は冷たい水を飲むように…と言った。しかし今は空調もある上、暖冬傾向もあるので、季節の体の注意をするのが難しいのが実情だ。私は10月くらいから乾燥注意を始め、今は水も飲みたくなってきている。

 やっぱり一番大切なのは自分がおいしい、欲しいと感じるものを摂ること、それが滞りなく同化・異化(吸収と排泄)がなされているかを身体感覚で確かめること。水が飲みたいときは水が良い、でも小水の出方や色などを確かめる。

 特にお風呂で水を飲むのは野口先生も勧めているし、季節に関係なく体が水分を吸収しにくくなる時はあるので、食べものから水分をとることを憶えておくと、風邪の時などにも応用できる。

整体についての記事

 今、私は脚が筋肉痛である。ピークは過ぎたものの、このブログで腰、脚、と体の話をした後、自分のその部位が痛くなるというのが続いている。

 この筋肉痛は、伊勢原市大山阿夫利神社下社までモノレールで登った後、帰りだけ古道(男坂・女坂)を歩いてしまったことがきっかけだ。

 私は結構山歩きには強い方だが、これはけっこう痛い…。しかも普通の登山をした時と痛み方が違い、硬張りを強く感じる。やはり上り・下り両方歩かないと、脚の疲れ方が偏ってしまうのだろう。体の自然に反したことをやってしまったようだ。

 この帰り道、無人販売にあった大きな里芋を買い、出しをとって味噌汁をつくった。気を集めて作業すると、無心になれる。おいしいだけでなく、食べた後、体が充ちる感じがする。体の自然に反したことをやってしまう時は、意識下に鬱散したい気分(感情エネルギー)があるもので、食べた後、そのことを反省した。気が落ち着くと自分のことが見えてくる。

 

 ちょっと話は飛ぶけれど、ずっと以前に読んだ

五木寛之×佐藤愛子「作家は、普通の方より恥ずかしいことが多い。人並の業では、小説なんて書けません」|芸能|婦人公論.jp

という記事の中で、野口整体の話が出てきた。佐藤氏は長く整体指導を受けており、臼井栄子先生が亡くなるまで指導を受けていたという(今は別の指導者のようだ)。

 これ以外にも対談やインタビューで野口整体の話をしている記事を何度か読んだことがあるが、私はこの人を見ると、ご本人のしっかりした身体もさることながら、臼井先生の指導力というか、気の力というか、そういうものを感じて「すごいな…」と思う。

 ただ、私は以前、活元運動の会で臼井先生の指導を受けていたという人にお会いしたことがあるが、その人からはそういうことを感じなかったので、佐藤愛子氏と臼井先生の信頼関係がそれだけ深かったのだろう。佐藤氏の最も困難な時期(長い上に何度も危機があった)に指導していたということもある。

 臼井栄子先生というのは野口晴哉が死の間際に最高段位を与えたただ一人の高弟で、おそらく後を託すつもりだった人だが、最終的にはそのようにならなかった、という人である。

 分かりやすく言えば「すごい指導者」なのだが、私は臼井先生がという以上に、佐藤氏が臼井先生に対する信頼だけでなく、自身の生命に対する信頼の両方があるのを「すごい」と思うのだ。これは切り離せるものではなく、両輪と言えるだろう。

 まあ、佐藤愛子氏は90代後半で、現役の人という感じではなくなってきているが、もう一つ紹介しておこう。先日、野口晴哉の孫という人(指導はしていない)の記事を読む機会があり、この人は40代なので、良かったらどうぞ。なおワクチンについて述べられているが、指導者によって、また整体に関わる人それぞれに多様な考え・観方があることも付け加えておく。

体の現実

 何となく中華っぽいものが食べたくなって、白菜と干し椎茸のオイスターソース炒めを作った。白菜の料理は味がぼけやすいけれど、やっぱり腰の調子が良いと味が決まる。この「決まる」という感じが、腰の力というものだ。

 要求がスッと行動になる体の状態で生活できると、自分で自分を充たすことことができ、こんな小さなことでも幸せを感じる。そうそう、伊豆・修善寺産干し椎茸は香りが良くておいしいので、見つけたらぜひ。

 ところで、前にJamiroquaiのことを書いたが、やっぱり私はジェイ・ケイがVirtual InsanityのMVで見た姿からかなり変化して(体が硬く重そうになって)、声の出方も変わってしまったのがその後も気になっていた。

 少し調べて見ると、2017年には椎間板ヘルニアで来日をキャンセルしているし、もう少し前には重い肺炎にもなったようである。

 もちろん、実際に歌う時にMVと同様に踊ることはできないし、誰しも20代と同じというわけにはいかないだろうが、ちょっと年齢だけでは説明のつかない変化をしているのだ。

 それでyoutubeで動画をいくつか見てみると、1997年ぐらいのライブだと、ステップというか、脚の動きが非常に良く、キレのある人であることが分かる。しかしその後、2012年位からの動画を見ると、歌う時に歩くことはあっても、そういう脚の動きとビートのつながりが離れている。

 どうしてこうなったのかという背景までは分からないが、脚が動かないということはこの人らしさ、この人の良さが影を潜めていることと一つであり、おそらくジェイ・ケイは、体癖で言うところの下肢行動型、捻れ型体癖が結構あるのだと思う。

 先日、師匠にもらったノートを何気なく見ていたら、赤字で

病気そのものが、その人の異常な生活に対する抵抗反応、拒否反応ではなかろうか。

とあるのが目に留まった。このノートは野口先生の死後、先生が講義での言葉を思い出して書いたものである。

 この「異常な生活」というのは、その人の自然なあり方、裡の要求から離れた生活という意味だが、Virtual Insanityが世界的に売れまくった後、かのジェイ・ケイにはどんな生活があったのだろう、とふと思った。

 まあ、今でも相変わらずカッコいいと思う人はいくらでもいるし、これは私の感じたことでしかない上、ちゃんと観察して言っているわけでもない…。ただ、才能があり、自分のやりたいことをやって、それで成功していると多くの人に思われている人(自分でもそう思っているかもしれない)であっても、体の現実には本当の心が表れている。そして、その本当の心というものが、その人の自然から離れた生活を送っていると分からなくなるのである。

 自分にとってのリアルは、いつも、体とともにある。

参考

これは1997年の映像で、この人らしい動き、統一感のある体の動きというのが分かるかな?と思われる。ジェイ・ケイの声がちょっと枯れているが、これは捻れ型特有の風邪の初期症状かな?こういう風邪は乱れた状態が切り替わる時で、意外と調子は良かったりするもので、これもベストではないけれど全体的にはいい感じ。

 

行きて帰りし物語

 冬が近づいてくる。せっせとスープを作って、切らさないようにしている。

 少し前に腰痛のことを書いたのだが、じつはあの後から自分の腰が痛くなりはじめた。整形外科などに行くと、おそらく坐骨神経痛と診断されるだろうという感じだが、動けないとか何もできないとかそういうことではない。むしろ整体指導をしている時は痛くないのだ。でも、痛みは10日位続いていた。

 しかし、ふと以前「野口整体を愉しむ」というブログの記事の中で、手の指に愉気をする

https://flyingpooh.hatenablog.com/entry/2020/03/11/032410という内容があったのを思い出し、何となく手がその場所に行ったので愉気をしてみると、すぐに腰が軽くなってきた。

 私の場合(たしか体癖によって指が違う)は、左薬指の三節目なのだが、その後、骨にくっついていた柔らかいグミのようなものがずるっと動いた瞬間、腰が9割方治ってしまったのだった。腰を治そうと思っていたわけではないのに、である。

(力の入り方が偏っている状態は残っていたから即全快ではない)

 リンクを張りたいのだが、これは腰を治す目的で行う愉気法ではなく、記事全体の内容も思い出せないし、検索ワードも思いつかず、探せないのが不覚というか残念というか…。仕方なし。

 これって何だったんだろう?腰椎四番の関連だということは分かるのだが、私はいまだ にこういうことがあるとびっくりしてしまう。普段の体の使い方の反省をしつつ体の癖を再認識中である。

 振り返ってみると、腰が痛くなり始めたのはシュタイナーが死者と生きている人間との関わりについて述べている内容を読み始めた時で、私は『精神科学から見た死後の生』という本を買ったのだった。

 これまでに読んだ三冊は頂きものだったのだが、ついに自分でシュタイナーの本を買ってしまったのである。

 夏に『カルマ論』を贈ってくれた友人に、私の師匠の死に際して経験したことの意味が分かるかもしれないと言われていたのだが、もう一歩というところだったので、思い切って買ってみたのだ。

 そして私は、深い納得感とともに、意識下で「もっと早くに、先生が生きている時にこういうことを知っていれば」という後悔に支配されていたようだ。

 腰が痛む時、私は先生の左側の腰椎四番から仙腸関節にかけて手を当てていた時のことを思い出し、同じようなところが痛いなあと思いながら、その当時のことを思い出していた。

 すると先生の指導を受けていた人から、ふいに指導の申し込みがあり、その日の夜、左の薬指の愉気で腰の痛みがなくなった。

 児童文学の世界で、ファンタジーとは「行きて帰りし物語」(トールキンの言葉)だと言われる。 

 この世とは異なる世界に行って、旅をして成長し、帰ってくる物語ということだが、私は何だかシュタイナーを読んだこと、その後の後悔とディプレッション、腰痛が一連の物語、ひとつのファンタジーのように思えた。ちょっと大げさではあるけれど。

 痛みがある時というのは、注意の方向が自分の内側に向かっている時である。それは、意識と無意識をつなぐ通路ができて、過去というか、記憶の底に向かう時なのだと思う。

 でも、痛みにだけ注意を集め、動かないでいると、外界に意識が向かわなくなっていく。いわば「帰れない」状態になるのだ。

 そういう時、姿勢を整え、重心が下がるようにすると、痛みだけに注意が集まってしまう状態を脱することができる。こういう繰り返しの過程も必要だ。いろんなことを乗り超えて、自分を鍛えつつファンタジーの世界を旅する主人公のように。

 今回は薬指の愉気で痛みがなくなったが、それはこの世に帰ってくるきっかけのようなものだった。先生が教えてくれたのだろうか?

 ファンタジー文学の主人公なら、旅の後には成長しているのだが、私の場合はどうだろう?新しく申し込んできた人に、それを試されるような気がしている。

(追記)

読者の方にご教示頂き、「野口整体を愉しむ」の

アドレスを入れることができました。ご参照ください。

深まる秋に

 活元運動の会の後、八百屋さんに寄ってみたらなんと茄子の特売日!そこで、初の試みとして、茄子の泥亀煮(NHKきょうの料理参考)を作ることにした。

 二つ割りにした茄子に格子状の切れ目を入れたのを「亀の甲羅」、すりごまと味噌の入った煮汁に浸かっているのを「泥」に見立てた名前だと言う。京都のおばんざいだそうだが、面白い名前である。茄子のみそ炒めと煮物の中間的な感じも良い。

 八百屋さんに次郎柿という種のある甘柿も売っていたので、それも購入。この頃、種無し柿が主流になってしまったが、私は昔からある次郎柿が好きだ。お尻が割れたり、黒くなったりしやすくて、見た目は良くないけれど、味の濃さが違うような気がする。

 神奈川県の甘柿の在来種で禅寺丸というのがあって、柿生という地名の由来でもあるそうだが、まだ食べたことはない。今度、見つけたら食べてみようと思っている。

 野口晴哉も柿が好きだったそうだが、先日見たあるブログによると、大本教出口王仁三郎が「柿は毒出し作用がある」と言っているという。本当かどうか分からないが、活元運動の会の後、無性に食べたくなっていっぱい食べてしまったから、あながち嘘ではないかもしれない。活元運動の誘導をすると私の方も活性化してしまい、排泄要求が高まったりするのだ。

 気候変動や、新型コロナウイルスの影響で、自然という状態が前より一層分からなくなってきているように思う。また最近、個人によって程度の差はあるが、体が「不適応」の状態になっている人が多いと感じる。

 これは、かのmRNAワクチン後の体だからなのか、感染症対策が至上命題になっていることに対する疲れなのか、人間関係によるものか、個人指導でないと見きわめは難しいけれど(変化の仕方が似ているので)、気になる傾向である。私は、パンデミック新型コロナウイルス感染症全体が、集団的な不適応症候群のような気もしているのだが。

 ワクチンを接種した人も、していない人も、地に足をつけて、土のにおいや風の変化、食べものの味の変化に注意を向けるようにしてほしい。そして体が感じていることを快も不快もそのまま受け入れ、眠る前には5分でもいいから自分一人になって、明かりを暗くして、何かを考えたり、外界(ネットも外界)に反応するのをやめる時間を持ってほしい。

 今は冬至に向かう時期であり、そういう静かさと裡に向かう方向が時宜に適っている。行楽もいいけれど、今いる場所で、今ここにある体で感じることに注意を向けていきたい。

精神的な腰

 先日、島根の方から、中国地方に私の師匠の弟子で指導をしている人はいるかという問い合わせがあった。あいにくそういう心当たりはなかったのだが、その人は全身性の湿疹(アトピー)に悩んでおり、ある漢方薬を飲んだことがきっかけで、医師が処方するすべての薬が飲めなくなった(アナフィラキシー的反応が起こる)のだそうで、治療法がないと言う。

 アレルギーの最もひどい状態にあるとのことで、鍼治療を受けているが思うような効果がないらしい。ただ、私の師匠の流れで、ということだったので、おそらく心因というか、そのような面(ストレス要因)に思い当たることがあるのだろう。

 こういう心の内側に向き合っていくというと、相手の話を聞き、共感的に受け取ることだと理解する人が多いし、そういうことを期待されたりもするのだが、実際はそうではない。もちろん基底として不可欠なことではあるが、それだけでは行き詰まる時が来る。

 私の師匠が指導していた人だったが、怒りや不満が起こるとすぐ蓋をしてなかったことにしてしまう人がいた。負けず嫌いで我慢強いタイプの人で、自営業だったがいつも仕事を意欲のないまま、嫌々やっていた(その後、自営からサラリーマンになったが、同僚にどうしても嫌な人がいて、嫌悪と怒りを抑圧するようになった)。

 飲酒と食生活にも問題があり、指導を受け始めたきっかけはたしか膵臓の問題を鍼灸師に指摘されたのがきっかけだったと思う。

 この人が見るからに自堕落で救いがないような人かというとそうではなく、表面的には大人しそうで、人もよさそうだし、地域の活動などにも参加し、子どもの面倒もよく見ていた。

 それでも何年にもわたる個人指導で弾力を取り戻し、心身をリセットしすっきりすることができるようにはなったことで、健康状態はよくなっていったが、最後の詰めとして、自分の仕事に対する向き合い方を変えるところまではいかなかった。

 この人は指導で、先生に「いつも怒りを抑圧した状態で、不貞腐れたような態度で嫌々やっている」という態度を指摘されるようになった。

 しかし「先生は自分のやりたい仕事をやって能力を発揮している人だけど、自分はお金(生活)のための仕事をしている。」(だから仕方がないし、自分の辛さは分からない…と言いたかったのだろう)と、内心で反感を持つようになった。そして、先生は指導を打ち切ることになったのだった。

 残念ながらその人は、指導打ち切り後、大きく体調を崩すことになったのだが、その時は私が指導をしたりしたこともある。しかし私も手を引くことになった。

 先生はこの人を例に出して「生き方と腰」の話をよくしてくれた。この人には肉体としては腰があるが、人間には「精神的な腰」というものがあり、それがないのだと言った。

 それは骨盤部・腰椎部が硬くて弾力がなく、この辺りの身体感覚も鈍いということでもある。自分という存在の基盤であるはずのものがないのだ。

 一般的にもよく腰抜けとか、腰が入っていないなどと言うが、これは責任を持つことができないとか、本気になっていないということを表現しており、「腰」という言葉は全身で何かに取り組む姿勢を象徴している。こういうのも精神的な腰を言い表した言い回しだと言える。

「精神的な腰」は内面的な抵抗力と密接な関係がある。内面的な抵抗力というのは、自分の怒りや不満、不安などに支配されている状態、意欲や集中力が失われたぼんやりした状態に気付き、それを転換する(切る)ということだ。こういうことは、一般に頭(理性や自我)がやることだと思っている人が多いのだが、実際には「精神的な腰」の力である。

 誤解を恐れずに言えば、この人は指導の時、よく「抑うつ状態」になっていたが、「腰が痛い」とか、腰の不具合を訴えることはなかった(痛くても不思議はない状態であっても)。私の知人は腰痛を鍼で抑える生活を続けた後、抑うつで休職することになったが、本当に、腰痛がある時は「まだいい」ということが多いのだ。

 腰痛と言えばロキソニンを飲む、というのが常態化している人が増えているようだが、腰痛、また肩などの「痛み」が意味することというのは一般に思われている以上の重さがあり、「体の声」としてしっかり向き合うべきものだと思う。

体の適応と心の停滞

 お彼岸に活けた白い菊とリンドウが、まだ元気に咲いている。涼しくなってきたせいか。地場野菜のサツマイモをかぼちゃの煮物の要領で煮てみると、驚くほどおいしい。今はもう秋、である。

 以前に今年はインフルエンザが復活するという予測について書いたが、どうやら今年の夏も昨年同様、南半球でインフルエンザの流行はなく、新型コロナウイルス独り勝ちだったようだ。

 例年通りだと、北半球の冬も同様という予測になるのだが、それは今、勢いを潜めている新型コロナウイルスが秋冬に復活するかも、ということである。ちょっと残念な予測だが仕方がない。

 それはそうと、実は今、私はあまり体調が良くない。やたらに眠くて何となく食べてしまい、意欲がわかない。何だか不安げな方向に空想が向きやすい。秋のキンモクセイアレルギー症状も強めだ。

こういう時、「秋だから」と片付けたくなるが、季節の変化に適応できなくなるのはなぜか。そこにストレス、感情の停滞があるからである!

 そういう時、心の中はたいてい漠然としていて、雲がかかったようになっているので分かりにくい上に、自分でもあんまりそのことを認めたくなかったりするのだが、実際私はそうだった…。あの電話からだ、と思い当たった。

 やっぱりこういうことに注意を向けるのは私の師匠の影響で、一般に野口整体の本だと「季節の体の手当て」とか、季節の変化と体の適応のことが書いてあることが多い。

 そもそも、生きて、動いて、変化する体に注意を向けることが第一段階として必要なので、それはそれで意味のあることなのだが、自分の内的時間(生命時間)と外的時間(時計や暦の時間)の流れがずれてしまう(適応がうまくいかなくなる)のは心に停滞があるからなので、整える上ではそこが一番焦点になるのだ。

 それにしても、ちょっと気づくのに時間がかかってしまったなあと反省。ブログも書くのが遅くなってしまったし。言い訳だけど…。

 でも、気づくこともなく、自分の心をはっきりさせることもないまま、どんよりした体だけを何とかしようとしてもうまくいかない。人の指導をする立場だからって分からないことはある、気づいた所から始めよう…ととりあえず自分を慰めて、体を調整してみることにする。


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