アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

精神的な腰

 先日、島根の方から、中国地方に私の師匠の弟子で指導をしている人はいるかという問い合わせがあった。あいにくそういう心当たりはなかったのだが、その人は全身性の湿疹(アトピー)に悩んでおり、ある漢方薬を飲んだことがきっかけで、医師が処方するすべての薬が飲めなくなった(アナフィラキシー的反応が起こる)のだそうで、治療法がないと言う。

 アレルギーの最もひどい状態にあるとのことで、鍼治療を受けているが思うような効果がないらしい。ただ、私の師匠の流れで、ということだったので、おそらく心因というか、そのような面(ストレス要因)に思い当たることがあるのだろう。

 こういう心の内側に向き合っていくというと、相手の話を聞き、共感的に受け取ることだと理解する人が多いし、そういうことを期待されたりもするのだが、実際はそうではない。もちろん基底として不可欠なことではあるが、それだけでは行き詰まる時が来る。

 私の師匠が指導していた人だったが、怒りや不満が起こるとすぐ蓋をしてなかったことにしてしまう人がいた。負けず嫌いで我慢強いタイプの人で、自営業だったがいつも仕事を意欲のないまま、嫌々やっていた(その後、自営からサラリーマンになったが、同僚にどうしても嫌な人がいて、嫌悪と怒りを抑圧するようになった)。

 飲酒と食生活にも問題があり、指導を受け始めたきっかけはたしか膵臓の問題を鍼灸師に指摘されたのがきっかけだったと思う。

 この人が見るからに自堕落で救いがないような人かというとそうではなく、表面的には大人しそうで、人もよさそうだし、地域の活動などにも参加し、子どもの面倒もよく見ていた。

 それでも何年にもわたる個人指導で弾力を取り戻し、心身をリセットしすっきりすることができるようにはなったことで、健康状態はよくなっていったが、最後の詰めとして、自分の仕事に対する向き合い方を変えるところまではいかなかった。

 この人は指導で、先生に「いつも怒りを抑圧した状態で、不貞腐れたような態度で嫌々やっている」という態度を指摘されるようになった。

 しかし「先生は自分のやりたい仕事をやって能力を発揮している人だけど、自分はお金(生活)のための仕事をしている。」(だから仕方がないし、自分の辛さは分からない…と言いたかったのだろう)と、内心で反感を持つようになった。そして、先生は指導を打ち切ることになったのだった。

 残念ながらその人は、指導打ち切り後、大きく体調を崩すことになったのだが、その時は私が指導をしたりしたこともある。しかし私も手を引くことになった。

 先生はこの人を例に出して「生き方と腰」の話をよくしてくれた。この人には肉体としては腰があるが、人間には「精神的な腰」というものがあり、それがないのだと言った。

 それは骨盤部・腰椎部が硬くて弾力がなく、この辺りの身体感覚も鈍いということでもある。自分という存在の基盤であるはずのものがないのだ。

 一般的にもよく腰抜けとか、腰が入っていないなどと言うが、これは責任を持つことができないとか、本気になっていないということを表現しており、「腰」という言葉は全身で何かに取り組む姿勢を象徴している。こういうのも精神的な腰を言い表した言い回しだと言える。

「精神的な腰」は内面的な抵抗力と密接な関係がある。内面的な抵抗力というのは、自分の怒りや不満、不安などに支配されている状態、意欲や集中力が失われたぼんやりした状態に気付き、それを転換する(切る)ということだ。こういうことは、一般に頭(理性や自我)がやることだと思っている人が多いのだが、実際には「精神的な腰」の力である。

 誤解を恐れずに言えば、この人は指導の時、よく「抑うつ状態」になっていたが、「腰が痛い」とか、腰の不具合を訴えることはなかった(痛くても不思議はない状態であっても)。私の知人は腰痛を鍼で抑える生活を続けた後、抑うつで休職することになったが、本当に、腰痛がある時は「まだいい」ということが多いのだ。

 腰痛と言えばロキソニンを飲む、というのが常態化している人が増えているようだが、腰痛、また肩などの「痛み」が意味することというのは一般に思われている以上の重さがあり、「体の声」としてしっかり向き合うべきものだと思う。