アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

心臓と太陽

 冬キャベツの発酵漬けを仕込んだものの、寒すぎて発酵してくれない…。この発酵漬けは春まで十分食べられるぐらい日持ちがよくて(冷蔵庫保存)、しかも時間がたった方が美味しいというすぐれものなのだが、寒いと時間がかかる、ということも付記しておきたい。

 少し前から、私は心臓・血液と太陽の関係に興味をもつようになった。それは私が観ている人の中に、心肥大と不整脈の人(いずれも軽症で薬は飲んでいない)がいて、私自身あまり心臓が丈夫な体ではないという実際的理由もある。

 でも、太陽と心臓という結びつきに関心を持ったのは、このブログで最初に新型コロナウイルスについて書いた時、シュタイナーの黒板絵「心臓」の画像と、アボリジナルアートの「My Coutry」の画像が似ているのに気づいたのがきっかけだった。

 シュタイナーの提唱したアントロポゾフィー医学では、「心臓と血液は太陽からのエネルギーによって動いている」と言われているが、これはシュタイナーだけの考えではなく、ヨーロッパでは古くから太陽と心臓のつながりが説かれていた。

 日本でも「お天道様と米の飯はついてまわる」という言葉があって、私の整体の師匠はこの言葉が好きだったのだが、自分を生かすエネルギーが与えられていて、自分は生かされている、その生命エネルギーの供給源は太陽だという信仰があるのだ。

 医学的にも、京都府立医科大など世界7カ国の共同研究グループが、統計的に心筋梗塞が起こりやすい気象条件として

★気温が低い、気圧が低い、風が強い、日照時間が短いこと(特に最低気温が低いこと)

を挙げている。

 太陽のエネルギーが最も弱くなる冬至の頃、心臓が影響を受けやすくなる…という仮説が成り立つのではないだろうか。冬が長く日照時間が短いヨーロッパでは、実感から心臓・血液と太陽の関係を捉えていたのかもしれない。

COVID-19では、心疾患と血栓のできやすさが重症化と深く関わっていると早い段階から指摘されていた。そして、心疾患の多いヨーロッパでは第一波以上の勢いで感染が拡大し、重症者、死者の数は日本の比ではない。

 何はともあれ、2020年は12月22日が冬至で、太陽の力が最も弱くなる。寒さ対策も必要だが、太陽を浴びることにも目を向けてほしい。

 

 私は先日、活元運動の会に初めて参加した人から「活元運動は無意識の運動だというけれど、無意識というのがどういうことか分からない」という質問を受けた。

 確かに、「活元運動は無意識の運動」とよく言うけれど、あまりいい説明ではないように思う。

 そこで、アルダブラゾウガメ玄先生は何と答えたか。

私は思わず、「無意識というのは生の意志、生きる方向に向おうとする意志のことだ」と言った。

 例えば私は、昔、ある時「死にたい」と思ったことがある。しかし、そう思っているさなかにいきなりトイレに行きたくなり、用を足しながら「死にたいとか思ってる癖に、こんなことしてるのは変だな」と思った。つまり、死にたいのは私の上っ面(意識)だけで、体の方は生きる気満々じゃないか、と気づいたのだ。

 いくら今、頭が「死にたい」と思っていても、はいそうですかと心臓が止まったりはしない。そういうふうに、ひたむきに生きようとする力、意志が体にはある。それが無意識なのだ、と私は説明した。

 だからこそ大切なのが、無意識の声、体の声を聴く「意識」のあり方であり、それが『整体入門』などに書いてある「頭がぽかんとする」ということなのだ。(多くの人は、考えている意識が日常の意識状態のため、「ぽかん(思考が止んだ意識)」も分からない人が多い。)

 こういう時、他の先生はどう答えるのだろう?分からないけれど、私はとっさに出てきたこの答を、けっこう気に入っている。

 

 

晴風万里 理想のお墓について

 先日、地元の乾物を送ってくれた友人に、お礼状を兼ねてムーミンのクリスマスカードを送った(ムーミンに似ているため)。

 15日のWHOの発表によると、「サンタクロースは高齢者だが、新型コロナウイルスの免疫を獲得した」とのことで、まずはめでたいことである。そして子どもたちにサンタとのソーシャルディスタンスを保つよう促している。

 アメリカとヨーロッパの現状が深刻さを増す中、公式な報道官がこういう発表をするというのが、西洋の良い所だ。大人文化、というか。

 元保育士のおもちゃ作家、杉山亮氏は、クリスマス前にワークショップで訪れた幼稚園(仏教系)で、僧侶の園長先生が「みんな、サンタさんが来てくれるように、仏さまにお願いしましょう!」と子どもたちに説法?しているのを見て驚いたことがあるそうだ。

 ま、それも日本ではありかなと思う。他のお坊さんはどう思うか分からないけれど。

  さて、お墓の話だった。野口晴哉のお墓には「晴風万里」と刻まれているという。野口晴哉には、近代初頭の復古神道系の霊学(松本道別など)との関わりもあり、葬儀は神道式だったと聞いている(ご子息の裕介先生の葬儀はどのようにされたのか分からない)。

 でも、禅に造詣が深く、愉気法の会で阿字観(真言宗の瞑想法)を解説している資料もあり、生命観などは万教帰一的と言っていいかと思う。

 私の師匠は野口晴哉のお墓参りに行ったことがあるのだが、行ってみたものの「先生はここにはおらん」と思った、と言っていた。そうだろうな…と私も思った。

 野口晴哉は、乳児の頃父を亡くした3才6か月の女の子が、「パパはお砂の下よ」「寂しい」と言うのだが、この子に父の死をどう教えたらよいのか…という質問に対する答えの中で、母親が死の話題をタブー視している問題を指摘した後、こう言っている(『月刊全生』)。

 砂の下に行っているのは体(遺体・お骨)なのです。…“お父さんの体”は砂の下に行った。けれども“お父さん”はそんな所に行きはしない。

 お母さんの中にいるのかもしれない。あるいは少しフワフワして、陽気に、どこかの雲の上にでも行ってしまっているのかもしれない。私なら、死んだら雲の上に行きますね、そっちの方が景色が良いですから…。

 だからお父さんの体はそこ(お砂の下)にあるけれども、お父さんはどこかに行ってしまった。

  やはり野口先生はお墓の下にはいそうもない。きっと、雲の上に行ってしまったのだろう。

 私の師匠の葬儀は真言宗(智山派)の僧侶が来てくれたが、先生個人は葬式仏教や拝み信心が大嫌いで、檀家だったわけでもない。ただ近所だった、というだけだ。お骨は海に散骨され、お墓はない(先生に子はない)。

 先生は山が好きだったから、散骨は山の方がよかったかな…と思うけれど、法律的な問題もあるらしい。

 私の祖母は生前、死んだら土に還りたいという強い希望があったので、墓地の土を掘って直接、骨を埋めた。これははっきり違法なのだが、こっそりそうしてしまったのだ。

 当時、私は中学生だったが、「土に還る」という死生観と、そのようにした伯父と父をすごくいいな…と思い、おばあちゃんはきっと喜んでいると確信した。

 だから、私は昔から「体(遺骨)」のほうは「土に還る」というのが良いと思っている。魂は時間と空間を超えた自由な存在になるのだから、話しかければすぐ応えてくれる。そして私は先生の死後、理想の墓地を夢見るようになった。

 まず、放置された杉林や竹林などで荒れてしまった山を買い、一区画ずつ墓地として多くの人に買ってもらう。なるべく水源地がいい。そして、その土地に散骨する。

 そこに在来種の苗を植樹し、植物層を回復して自然に戻していく。こうして明治神宮のような森を育て、最終的には限られた小さな区画ではなく、その自然公園全体を墓地としていく…という夢だ。いこいの場を作って、そこに僧侶や司祭、牧師、神主、何でも呼んで追悼を行うのもいい(要予約)。

 山を御神体にしている神社(大山阿夫利神社など)では、本宮と奥宮があるが、いこいの場を本宮と考えたらいいだろう。頑張れる人は山を登り、このあたりかな…というところまで行くこともできる。こうして死後、日本の自然を再生するのだ。

 こういうお墓、どうでしょう。誰か、出資してくれないかなあ?

 

キャベツの乳酸発酵漬け

 時々行くオーガニック野菜のお店で、キャベツの大安売りがあり、去年から始めた発酵漬けを作ることにした。

 これは「浮かし漬け」という手法のロシア式の漬物で、塩・水・野菜、野菜についている乳酸菌のみで作る。

 作り方はロシア式だけれど、青梗菜や白菜、大根菜などは東洋的な味わいに、キャベツやセロリ、玉ねぎなどは洋風の味わいになり、ルーツによる個性が発揮されるのが面白い。

 また、水耕栽培のセロリなどは、発酵が進むと溶けてしまうが、有機無農薬のセロリはそうならないなど、野菜の底力を見せつけられる。トルコではトマトで発酵漬けを作り、伝統的調味料にもなっているそうだ。

 時間が経つにつれて乳酸発酵が進み、乳酸菌によって旨味が深まる。漬け汁も、肉や魚介の下ごしらえに使うと臭いが取れ旨味が増す。

 料理研究家の荻野恭子さんによる基本のレシピでは

好みの野菜 500(食べやすい大きさに切る。ブレンドしても良い)

漬け汁  水3カップ、粗塩大さじ1 1/2 (水1カップ:塩小さじ1)

 これを蓋つき容器(ジップロックでよい)に入れて、三日ぐらい置き(夏はもっと早い)、漬け汁が白く濁って来るのを待つ。白く濁ったら発酵しているので、冷蔵庫へ。味見して好みの発酵度合いにすると良い。

密閉してしまうと、発酵する時に液が噴出したりするので、少し開けておく。

★塩分を控えたい時は、切った野菜を大きなボールに入れ、上記の塩水を1カップ加えて水が上がってくるのを待つ。それからひたひたになるまで塩水を加えるようにするといい(ひたひたになったらそのまま)。私はいつもそうしており、早めに冷蔵保存すれば大丈夫。

 各種スパイス、昆布やトウガラシを入れても良いが、入れない方が後々応用がきくし、食べる時に加えても良い。少し甘くしたり醤油をたらしたりしても目先が変わっておいしい。

 冬キャベツで作ると、ドイツのザワークラウト的なものができて、ソーセージの付け合わせ、野菜スープなどにも使える。ロシアでもママの味だそうだ。

なぜインフルエンザが流行しないのか についての追記

 前回のブログで挙げた、

①コロナ対策として、手洗い、消毒、マスクなどの予防が徹底されているため。

という理由について追記。

 じゃ、インフルエンザが流行らないのは当然でしょ?と思う人もいるかと思うが、ではなぜここまでやっているのに新型コロナウイルスはどんどん増えるのか?という疑問が残る。感染力の違いも考えられるけれど、感染感受性の方を考える方がいいのではないか。

 新型コロナウイルス感染症が重症化するか否かは、自然免疫の働きのありようによる、と以前に書いた。

 きっと東洋では、風土的に日々接することの多いコロナウイルス一族に対して、抗体という対立的なやり方(ターゲットを定めて専用の武器を開発して攻撃する)ではなく、自然免疫という、対立しない、ゆるいやり方で対応していくことを選んだのではないか。この方が変異しやすいウイルスに対して、合目的的だったのだろう。

 アジアで死亡者が少ないファクターXとして「交差免疫」ということが言われている。これはT細胞という免疫細胞が、過去に接したコロナウイルス全般に対する反応を記憶していて、それを新型コロナウイルスに応用しているという説である。

 こういう生命のはたらきは、本当に東洋的叡智のみなもとという感がある。

 また、インフルエンザは新型コロナウイルスより発症しやすいと言われるが、これは、「体がどう対応すればいいか知っている」のだとも言える。

 多くの「つらい症状」と言われるもの、下痢、発熱、せき、鼻水、体の痛みなどの多くは、重症化しないようにするための抵抗力の表れである。

 招かれざる客には、外界に接する器官(消化管、気道など。ロビーのようなところ)できちんと対応し、中枢神経など深部に影響が出ないようにするのだ。こうした免疫系のはたらきは、感染の経験によって発達し、病症経過によって経験値が蓄積されていく。

 野口晴哉野口整体を創始した時代は、まさに感染症の全盛期という時代で、「風邪の効用」で知られる野口晴哉の病症観は、この時代の経験が基礎となっている。

 それは、感染と軽度の発症はある程度受容し、ウイルスという外界の敵ではなく、個々の内側の条件…免疫系やストレス耐性、弾力などに注目し、そのはたらきを高めていくことが中心にある。

 野口整体新型コロナウイルスの知見はなく、現在、最前線で働く西洋医学の医療関係者には頭が下がる思いでいる。ただ、ワクチンと治療薬の開発でウイルスと闘う…というだけではない研究の在り方、科学の使い道というのもあるのでは?と思う。

インフルエンザ患者激減と新型コロナウイルス

 ネット配信のニュースで「コロナとダブル流行なんて言われてたけど、「インフルエンザ患者」がほぼゼロになっていた」(現代ビジネス)という記事を読んだ。

 この記事では、製薬会社や開業医が「患者激減で経営に困っている」という内容や、大げさに騒いだコメンテーターについての批判的内容が書かれているが、ここでは私が関心を持ったことを拾い出して考えてみたい。

1 インフルエンザの患者数

全国で171人(11月15日まで)。

昨年のインフルエンザの累計患者数は729万人、一昨年は1200万人。ここ5年間の平均患者数約1000万人と比較すると、今年は0・001%。

 '19年の11月第1週は5084人で、今年は24人。

 今年、インフルエンザによる死亡者はまだゼロだが、例年、約3000人が亡くなり、インフルエンザに罹ったことで、持病が悪化して死亡する人は年間1万人。

新型コロナウイルスによる死者数は2022人(11月26日時点)。

2 なぜインフルエンザが流行しないのか

①コロナ対策として、手洗い、消毒、マスクなどの予防が徹底されているため。

コロナとインフルエンザは、飛沫感染がほとんどで感染経路がほぼ同じ。そのため、コロナを予防することが、同時にインフルエンザも防いでいると考えられる。

②「ウイルス干渉」…体内の細胞があるウイルスに感染すると、他のウイルスに感染しにくくなること

 ウイルスAがその生物に吸着するのに必要な受容体(レセプター)を占領するため、あとから来たウイルスBが吸着できなくなる。

②が理由だとすると、無症状で新型コロナに感染している人は、かなりの数がいると推測され、それが結果的にインフルエンザの流行を抑制している可能性が高い

 なお、インフルエンザワクチンの出荷量は、11月20日時点で3120万本。昨年の同時期は2880万本で1・08倍の増加(厚労省)。

 またワクチンは重症化することは防げても、感染を防ぐわけではない。そのため、インフルエンザのワクチン接種は患者数減少との関連はあまりないと考えられる。

 その他、「今年の1~3月もインフルエンザの流行がなく、その傾向は今冬も続いている」(沢井製薬)、とのことで、海外においても、南半球では8月にインフルエンザが流行するが、今年はほとんど感染者が出なかったので、日本でもインフルエンザが減るという予測はされていたという。

  COVID-19が今年のインフルエンザじゃないのかな…と私などは思ってしまったが、ま、それはちょっと置いておこう。気になるのは日本人のほとんどがすでに感染したという説を裏付ける「ウイルス干渉」という説だ。

 病気には流行り廃りがあって、「特効薬がない」とされている病気の方が流行るとか、「大流行!」「発症するとこうなる、重症化リスクはこれだ」と大々的に報道され、話題性が高まると患者が増える(医療技術の進歩とともに次々に新しい病気が生まれ、病者が増えていく!)とか、そういう見方をするのは整体馬鹿だけだとしても、「ウイルス干渉」説はもっと普遍的に注目すべきことだと思う。

 また、以前書いたように、野口晴哉は「黄色人種はインフルエンザに強い」と言っているのだが、私個人は、コロナウイルス系の感染症は中国を中心とした東アジアの風土病的なものという意味かと思っている。

 人種云々というより、東アジアではコロナウイルスに接する機会が多く、つきあいの歴史も長いのだろう。

 新型コロナウイルスでもアジア地域の重症化率、死亡率は一体に低いそうだ。感染症パンデミックは、発生源から遠くなる程ひどくなる傾向があるとしても、コロナウイルス一族とのおつきあいが長いという素地もあるかと思う。

 アメリカやヨーロッパの二世、三世は、新型コロナウイルス感染で多人種とあまり重症化率が変わらないという報告があるのは、そういう環境にないからではないだろうか。

 まあとにかく、上虚下実で無心、天心。東洋の心であり、野口整体の心でもあるけれど、それを保つのが感染防御になる。また、中国に批判が集まっているけれど、中国国内ではCOVID-19に中国伝統医学が効果を上げていると言う(以前の報道)。西洋医学の先端医療だけでなく、そこから学ぶ必要もあるのではないだろうか。

 

宮本浩次氏の体癖

 宮本浩次禍(?)がひと段落して、冷静に『ROMANCE』ライナーの写真を見ていると、だんだん体癖が気になってくる。

 これはもう、すでに整体馬鹿を超えた病気だと自分でも思うが、写真を見る限りでは、宮本浩次氏は7種(捻れ型)と9種(開閉型)の重なりであるように見える。

 ただ、そういう体癖にしては脚(特に太腿)が細い。体全体が細いのは、体癖的にある程度普通だけれど、太腿が細いのはちょっと気になるかな…。

 ロッカーとしてはカッコいいとしても、特に中年期以降、健康と体力発揮という意味では、体癖問わず太腿の充実は必要なことなのだ。下半身型体癖はとくに。

 まあ、野口整体なんか全然知らないはずの宮本氏に、体癖のことを言っても「は?」だろうし、老婆心以外の何物でもないけれど、やっぱりこういう人には元気でいてほしい。今、宮本氏は本当に魅力にあふれて光っているから、野口晴哉先生の言う「50代を長くする」生き方を実現してくれるといいなあと思う。

追記

太腿は、鍛えて筋肉をつける方がいいとか、そういう意味ではない。

ROMANCE 宮本浩次

  今、宮本浩次『ROMANCE』を聴いている。う、やられた…っていう位、よい。

 ただ、私は前回、宮本氏の「あなた」で初めて「不在」を感じたと書いたが、歌詞をよく読んでみると、「いとしいあなたは今どこに」という所があって、もともとこの曲の中では「あなた」はいない設定であることが分かった…。ちょっとショックだった。

  他の曲でもそうだったのだが、小さい時に聞いた曲はフレーズのみで全体の内容をほとんど理解していないことがよく分かった。

 そしてもう一つ気づいたのは、松任谷由実中島みゆきの違いだ。

『ROMANCE』の中には、『恋人がサンタクロース』と、『化粧』『あばよ』(DISC2)が入っているのだが、中島みゆきの曲はすっかり宮本浩次の色に染まって、宮本浩次の曲みたいになっているのに、ユーミンの曲はがんとしてユーミンの曲なのだ。

 最初、中島みゆきのほうが宮本氏に適うのかなと思ったのだが、どうもこれは曲の性質によるものだと思う。一見、個性が強そうなのに、すっと歌う人の色に染まってしまうというのが意外だった。

 で、私が一番好きなのは最後の「First Love」(宇多田ヒカル)。やっぱり、買って良かった。今度はエレファントカシマシRCサクセションのカバーなどやってくれるといいなあ。

 何のブログだか分からなくなりそうなのでこのぐらいにするが、初めてのこととか、知らないことに、いつも心を開いて、新鮮な驚きを感じられる自分でありたい。やっぱり初心、ですね。

「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という茨城のり子の詩があったが、野口整体で言う「感受性を高度ならしむる」って、こういう意味もあるんだぜ。

 

それから、前回、ちょっと性別について書いたけれど、今、国立歴史博物館で「性差の日本史」という特別展をやっていて、すごくおもしろそうだ。でも、入場制限があって、予約で一杯らしい。興味のある方はぜひ。