アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

私の死生観試論

死という治癒

 私の手元に『癒しを生きた人々 近代知のオルタナティブ』(専修大学出版)という本がある。これは、明治~昭和初期の近代化過程で起こった岡田式正坐法(修養法)、森田療法心理療法)、大本教新興宗教)、マクロビオティック(食餌療法)、野口整体(言わずと知れた)の創始者と成立過程、時代背景などを章立てでまとめた本で、こういうテーマでは参考文献として挙げられることも多い。

 この本を初めて読んだのはもうかなり昔のことで、その後も何回か読んでいるが、最近「二章 霊―大本と鎮魂帰神」(弓山達也)を何気なく読み返した。すると、植芝守平(合気道創始者)が父の病気の相談で出口王仁三郎に会っている時、植芝の父が亡くなった、というところがあり、註によると、植芝守平は当時を回想し「亡くなったということは、(病気が)治ったことでしょう」と言ったという。

 私はこの植芝守平の言葉にはっとした。今までなぜ気がつかなったのだろう。実は、私も整体の先生が亡くなった後、がんで死んだのではなく「先生は死によって治癒した」と思うようになったのだ。「やはりそうか!」という思いだった。

 今のところ、確信をもってそうだと言えるのは私の整体の先生だけで、違う場合もあるだろう。しかし、病症というものの本質を考えると、かなり普遍的に言えることなのではないかと思っている。

 先生は直腸がんだったが、野口晴哉先生は「心に受けたショックと直腸癌」について次のように述べている。

心の怪我、打撲といったような、ふいに何か言われたことが痛みに感じられていつまでも残り、他日の病気の基になる。いま、直腸癌が流行しておりますが、ドキッとするようなことを言われた時、信頼をガタっと裏切られたような後になる。その後はドンドン物理的にそういう方向に進んでいく。それをいくら取り消したって同じである。だから直腸癌になった人は「どんなことが原因か」と言って追究していくと、たいていそういう原因にぶつかる。

(人間の構造『月刊全生』)

 

 野口先生は心の打撲によって部分が全体から分離し、秩序が破綻する方向へ向かう力が働く時、直腸がんになると言っている。経緯は省略するが、先生の場合はこの内容のそのままだった。その上先生は、その打撲がどういうことかを自覚していたし、そこから抜け出せない自分の潜在意識にも気づいていた。

 私が毎晩のように先生を観るようになって4~5か月ほど経った頃から活元運動が戻ってきていたし、亡くなる半年前までは、激しい痛みと症状と引き換えに、頭の緊張が弛み体の弾力が戻るのを繰り返していた。大真面目な顔で「今朝、朝立ちしとった!」と顔を見るなり言われて面食らったこともある(がんである人に、熟睡と健康の証である朝立ちが起こるのは稀なこと)。こういう状態は、体という意味ではがんと共存できる状態と言えるだろう。

 しかし、先生の全体性、魂を含めたレベルではどうだっただろう。先生は体から離れた次元に向い始めていたのではないだろうか。

 私は、体から心が離れた状態(麻痺・鈍り)を打開し、統合を取り戻そうとする働きが病症なのだと考えている。だから、生きている状態で統合できなければ、死によって統合しようとするのだと思う。治癒とは心と体、意識と無意識が統合性を取り戻すということで、それは生と死両方の場合があるということだ。

 死が治癒のもう一つの在り方だとすると、先生が最期の日に病院のベッドで右肺を弛める姿勢を無意識にとっていたのも自然なことだと思える。

 こういうことは一般化することはできないし、野口整体という枠組みからもはみ出しているかもしれない。それにいろんな水準の話がごちゃごちゃになっていて、あまりうまく説明できていないとも思う。でも、今思っていることを正直に書いてみた。自然な死とは何かを考える上で、参考になればと思う。

 

技術を使う心 5

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

 病人になった人が病気を治そう治そうと思っている間は治りはしません。にらめっこしていて、それを無くそうとしたって、それは無理です。にらめっこしている程に相手は大きくなる。注意を集める程に大きくなる。時計の音だって注意しなければ聞えないけれど、注意すれば眠りを妨げられる程耳やかましい。

 だから病気だって、こういう徴候はここがわるいんだ、背骨が曲ってる、腰が曲ってると、いちいち気にして追っかけていたら、一生病気の続きですよ。完全無欠の状態なんて空想の中にしかない。探せば必ずアラがある。だから病人というのは病気と対立しているが故に、他の人が感じられないような何でもないことを病気として感じられる。注意が集まっているからです。だから病気を治そうと一生懸命な人程、健康になろうと一生懸命に努力している人達程健全でない。遠ざかっている。囚われている。

 だから病人はくどくどやかましくて、一寸動いても胸がドキドキしましたなんていうでしょう。普通の人だってそんなドキドキは沢山にあります。けれどもそんなこと忘れてしまっている。病人だけドキドキしたことを大切に思っている。注意する程にそれが過大に感じる。

 だから病気に注意し、健康になろうと努力し、病気と闘おうと思うような意識的な集中があまり行なわれゝば逆効果のもとである。だから治療する人に対して忠実な、又衛生の書物に忠実な病人というものは、健康になる機会を自づから放棄しているといえる。整体操法でもそうなんですよ。「まだこゝが曲っている」「今朝起きたら腰が痛かったから、腰が曲っているんじゃないでしょうか」なんていってやってくる人が沢山にある。それは異常に対しては敏感であるが、自分で治る力を持っていることを忘れてしまっている。それを教えなくてはいけない。

 正してやることが親切ではなくて、体は自分で調っていくことを教えなくてはいけない。まァどんなことでも過敏になればそうなる。私はオーディオといって、レコードの音を再生することに興味を持っておりますが、人間の耳というのは一万二千サイクル以上は殆んど聞こえない。せいぜい聞こえても二万迄であるが、二万とか一万八千とかいう音はあってもなくても同じようなものです。

 それにも拘わらず、その音が出るか出ないかでは費用でいえば何百万円という差がありますのに、その大がかりな設備を求め凝っている。自分でも時々可笑しくなりますが、こういう勢で病人が病気にこったら、何でも病気の材料になるんだろうナと可笑しいのであります。

   

 誰もいろいろな欠点を持ちながら生きていけるのは、それを乗り超える心や体のはたらきがあるからです。

 その乗り超える心や体のはたらきを開拓しないで、病気に気を奪われて、それを治すことに一生懸命になっているとしたならば、どんな努力したとて、それは整体指導とはいえない。やはりそれを乗り超える力を、心の中から、体の中から喚び起こさなくてはならない。

 乗り超える力があれば失敗はない。乗り超えられないから失敗なのです。乗り超えられゝば、それは成功への基礎なのです。病気だってそうなんです。乗り超えられゝば健康への道なのです。

 だから乗り超えられる力があったら、いくら壊れようが病気ではない。つまずこうと失敗したのではない。こうすれば失敗するということがわかったのだから、失敗が一つ減ったことになる。ただ乗り超える自覚のない者がクヨクヨしているだけです。だから私達はその人達のヘナヘナな気持の中から、それ等を乗り超えていく心や体の力を喚び起こし、認め出していく。そうしてその使い方を教えていく。

 どうぞ整体指導をそういうように御会得頂いて、あゝ押す、こう押すと、押す場所を憶えることにあまりムキにならないで、そういう技術を通して心や体の使い方をお伝え頂きたい。では之で―。

年上の友だちを亡くして思うこと

持ちのいい顔、悪い顔 

 数日前、昔の友人が亡くなったという連絡が入った。それもヒマラヤ(ネパール)の、富士山山頂ぐらいの場所でトレッキング中、あっという間に亡くなってしまった。

 もう長いこと会っておらず、連絡も途絶えていたのだが、私はこの人が大好きだった。私より年上の女性で、人を受け入れる器が大きい人だった。

 Hさん、としておこう。Hさんは京都の人で、たしか日本舞踊か神楽舞を長くやっていた関係で、舞台の衣装や小道具の仕事をしていた。都おどりの仕事を長年していたので、芸妓たちと接することも多かったようだ。出版社でも仕事をすると言っていたが、ちょっと不思議な人だった。

 Hさんと出会った頃、彼女は私の顔を見て「あんた、ええ顔やナ。美人ゆうのとは違うけど、これは持ちのええ顔やで。」と言った。持ちの良い顔?当時、私は若かったので、どういうことなのか聞いてみると、いわゆる美人という種族は「持ちが良くない」、長持ちしない人が多いのだという。

 その点、私の顔は年齢がいってもあまり変わらない「長持ちする顔」で、芸者や役者もそういう顔の方が長く仕事ができるということだった。

 私はまだそういう観点で顔を捉えたことがなかったので、「うーん、なるほど!」と感じ入り、なんだかうれしくなった。「美人ゆうのとは違うけど」という言葉は切り捨ててしまうのだから、勝手なものである。

 整体を始めた後、私は美容整形を行う医師と親しくなったのだが、彼曰く、「美容整形はもともと美人の人がやるもの」なのだそうだ。確かに私が美容整形するとしても、どこから着手すれば美人になるのか思いつかない。しかしもともと美人ならば「ここを治せば完璧」というのが分かりやすいし、変化も大きいのだろう。それで気に病んでしまうことにもなるのかもしれない。

 この話を聞いて、私はHさんが「持ちのいい顔」と言ってくれたことを思い出し、「やっぱり持ちのいい顔の方がいいなあ」と思ったのだった。

 Hさんと出会った場所は中国西南部にある雲南省昆明市、そこも富士山七合目ぐらいの高地だった。足が強くて、健康そのものに見える人だったけれど、私は彼女がちょっと苦しそうに胸を押さえるのを目にしたことがある。心配になって「大丈夫?」と聞くと、彼女は「時々こうなんねん」と言っていたから、もともとの素質があって、今回亡くなることに至ったのかもしれない。

 彼女は当時からネパールが好きで、ヒマラヤで亡くなるというのは、彼女らしいような気もする。「無心」というか、独特の澄んだ心の持主で、虚空蔵というか、天空とつながっているような気がした。料理上手で優しく、女性らしい人だったけれど、裡にはどこか女離れしたところもある人だった。

 Hさんは享年67歳。早いと言えば早いけれど、彼女のことだから、まっさらな心で、新たな次元へ旅立っただろう。葬儀は神道で行うとのことで、神道の持つ清明さは、彼女に似合うと思った。

 でも、やっぱりこの世から彼女がいなくなるのは寂しくて、何だか、良い人から先に連れていかれてしまうような気持にもなった。すぐ近くにいて、いつでも会えた頃、私は自分を開くことで相手とつながるというのができなかったから、彼女に甘えたいのに甘えられないような気がいつもしていた。もっともっと、話がしたかった。彼女のことを知りたかった。

 今ならそうできるのに、彼女はもういない。後悔しない生き方をするには、開かれた自分でいることが大切なんだな、と思った。

技術を使う心 4

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

  それには体をつかう筋道や、心をつかう筋道を明らかにし、人間がその持っている体や心を自由につかえる方法を知らなくてはならない。

 人間の心というものは可笑しなもので、自分の心というものは自由に出来ない。こんなところで怒っては損だと思っていても怒ってしまう。泣くまいと思っていると涙が出てくる。自分の体だって自由に出来ない。もう少し胃袋を働かせようときばったって胃袋は働かない。ところが恥かしいと思うと顔が赤くなる。嫌やな人が傍に来ただけで食欲がなくなる。だから意志では自由には出来ないが、感情では出来る。空想では出来る。

 意識でどんなに顔を赤くしようとしても赤くならないが、十年前のことでも恥かしかったことを想い出すと、顔が赤くなる。この間多摩川で強盗におそわれた人が、私の所に参りまして顔を蒼くしてその時のことを話しておりました。「強盗におそわれたのは昨日のことでしょ。僕が強盗のわけじゃないんだから今そんなに顔を蒼くしなくてもよかろうじゃないか」といったのですが、彼女は蒼くなって震えながら話をしておりました。つまり実感があったんですネ。怖いと思ってる間は顔が蒼くなる。恥かしいという感じがある間は赤くなる。

 だから人間の心や体は自由に出来ないということのうしろには、自由にする方法を知らないということがあります。「胃袋よ働け」といったって、胃袋は働かない。だけども愉快だったらお腹が空いてくる。自分の好きな人のにぎってくれたにぎり飯なら美味い。御飯の中に蠅が一匹入っていたって食欲がなくなる。食欲がなくなるということは、胃袋の働きを抑えたことになる。

 だから意志では自由にできないが、空想とか感情とかいうものを使えば自由に働かせることができる。とすると、自由に動かせるはずの心や体を、今迄は意識というものにだけ、あるいは意志とか努力とかいうものだけ求めていたから、自由にできなかったのだということができる。だから方法さえ得れば、体も心も自由になるはずである。つまり方法を知らなかった為に、無知であった為に、自分の心や体をマスター出来なかっただけで、自由に出来ないと思い込んでいること自体が違う。

 こういう心や体をつかう筋道を知らせるつもりで、私は整体指導ということを掲げてやっているのであります。ですから、みなさんも整体操法の技術をこの心にそってお使い願いたい。肩がこったらもんであげましょう、下痢したらとめてあげます。お腹が痛ければ治してあげます、というような清掃管理人のまねはしないようにして頂きたい。もっと指導的立場をハッキリと自覚して、その立場に立って整体指導をやって頂きたいと思います。

 

 それからもう一つ、今回の講座では、私はみなさんの頭に話しかけることをやめまして、指で憶えて頂くために実習を多くしました。本当は東京の五の日講習で教えて効果をあげてきました指の訓練法をみなさん方にも毎回やって頂きたかったのですが会場の関係で実現できませんでした。

 それで私の希望は、みなさん方がお帰りになったら、毎朝一回でいゝから、判っても判らなくてもいゝ、練習して頂きたい。見つけようなんて気張らないで、スーッと触っていく。意識や意志をこらして調べようとするとかえってわからなくなることが多い。ただ注意することは、一週間続けたら十日は休む。二日でも三日でもよい、休む期間を長くする。そうすると休むことによって指の感覚は進歩する。

 意識的集中によって憶えたことは、集中をやめるとすぐに忘れてしまう。ところが何気なくスーッと触っていくというように潜在意識を通して体に憶え込ませたことは休むことによってその期間中に進歩する。これをしばらくお続けになると、努力しないでやったことの効果がお判りになることと思う。

技術を使う心 3

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

  潜在意識の中にいろいろな固定観念があったり、或いは余剰体力があって自分を示そうという意欲がありますと、意識しないうちにその人の動作をそういう方向に導いてしまう。だから自分は弱いと思い込んでいる人はその如く動作しております。体力が余って何か示そうとする意欲のある人はあらゆる機会に自分を示そうとする。だからそういう人が傍にいると何かザワザワする。

 だから突然「あさっての天気は晴れですか」なんて突飛な質問をする人がいたら、体力が余っていると見ていゝ。人間の中には、産まれた時にオギャーというように、もう始めから自分を主張しようとする要求がある。だからエネルギーが余ると我こゝにありという自己主張が激しくなる。

 だから、いろいろな病気の中にも、アイタヽヽという中にも、そういう要求が無いとは限らない。だから体が弱って病気になっているのだろうか、体の力が余って自己主張の方法として病気を訴えているのだろうか、それを確かめる必要がある。自己主張ならば主張しているものを別の角度で認めれば無くなってしまう。

 訴えなら訴えでその中にある欲しているものゝ方向を見つめさせれば無くなってしまう。だから人間の中にある自己主張というものは、病気の中にいろいろな形態で入っている。自信のなさか、体力の余りか、或いは主張したいことを正直に口でいえないために病気を訴えるのか。叱られて云い訳できないと、プッとふくれるでしょ。わざわざふくれるわけじゃないのだけれど、頬っぺたの方がひとりでにふくれる。そういうように体で表現するということが、病気の場合には沢山にある。

 だからその病気になりたい要求、病気を主張したい要求、そういったような心の一番奥にあるものは何だろうかと。それは確かに我こゝにありという自己主張には違いないけれど、何故わざわざそう出すのであろうか。自信のない為かも知れない。エネルギーが余っているからかも知れない。或いはそれを主張する方法を知らないからかも知れない。だから私達は、相手がイタイイタイと騒いでも、それを体の病気とみる前に、その以前の心の動きをつかまえようとします。

 体を押えたゞけでも治るけれども、それは一時のことである。それ以前にある要素、つまり病人になりたい心の角度を変えて、体の本来の力を発揮して経過出来るように仕向ける。そういう奥にある心を見逃して、イタイということだけしか、こゝを怪我したということだけしか見えなかったとしたら、それは間違いだと思う。同じ転んで怪我をするのでも、腰が悪くて転んだのか、親切に手当てをしてもらいたいためか、エネルギーが余っている為の自己破壊か、それを見究める必要がある。

 エネルギーが余ると子供は乱暴になりますネ。雨の日に部屋にとじ込めておくと、障子を破ったり、襖を破ったりしますネ。エネルギーが余るとそれを鬱散したい要求が高まって、それが破壊になるんです。その破壊現象を抑えられると、一番身近かな自分を破壊し始めるんです。ですから叱られるようなことばかりやる。自分を傷つけるようなことばかりやる。これが非行少年の生まれる理由で、生理的過剰エネルギーの為である。そういう過剰エネルギーで病気になっているとしたら、その過剰エネルギーを鬱散的に誘導しなければ、正当な指導とはいえない。

 ともかく私達は、行動以前にある心、行動以前にあるエネルギーを修正することが目的でありますから、相手のアイタヽヽというようなゼスチャーや訴えにひきずられるとしたら、病人に瞞着(まんちゃく)される行為だといえます。で、それを受け入れることによって病人が治るかというと、病人的要求はいよいよ強まるだけであります。治療行為だと称して、愈々(いよいよ)治療を必要とする病人をつくりだしていくことになる。

 私はそういうことはやりたくない。それ以前のものを対象にしてやっております。

※瞞着(まんちゃく)…あざむくこと、ごまかすこと。

  

技術を使う心 2

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

 整体操法の技術を、ある病気を治す為、他で治しにくい病気を治すために学ぶんだとお考えになったら、それは違うと思う。

 病気を治すことを目標にしている限り、それが巧妙に行なわれたとしても、治してもらう人の心の依りかゝりは大きくなります。それは効けば効く程強くなります。けれども自分の体はあくまで自分で管理しなければならない。その自分で管理する気持がなくなれば健康にはならない。だから人の不摂生の後始末を親切にする程に、その人は自立する気持を失ってしまうし、その人自身の持っている体の力まで失くしてしまう。その人が、自身の体の力を発揮すれば治っていくものを、依りかゝらせることによって発揮することが出来ない。だから病気を治すということを目標にしている限り、治療ということがどんなに上手に行なわれても個人個人の健康度は高まらない。

 逆にいえば、そういうことがあるという為に自分で自分の体を管理するという責任を放棄し、自分の体の力で生きられることを忘れて、依りかゝり、力の発揮をおこたり苦しいことを避け、楽なことを求め、自分の体の弱い責任を他のなにかになすりつけるような怠慢な生活をつくりだすようになる。これでは人間が独立して生きていくということが行なわれなくなる。

 だからその証拠には、衛生でも、養生でも、治療でも、みんな外から何かすることだと思われている。そうして外から何かすることを大がかりにし複雑にすることが進歩だと思われている。けれども人間の体の面から考えると、何かすることによって健康が保たれるということは退歩であって、何もしないで丈夫であり、何もしないで異常を切り抜けられる体でなければ、健康な体とはいえないのであります。だから他の何かに依りかゝる度合を多くするということは、依りかゝる人自身をフラフラにしてしまうということになる。逞しく自分の脚で行動することを教えねば、皆弱くなってしまう。

 そういう訳で、他の力で病気を治すということは、それが完全にできたとしても、みんなの健康度を高めるということにはならない。何かすることによってではなく、何もしないでひとりでに治ってしまうような、何もしないでいつも護られ、丈夫でいられるならば、それは進歩だといえる。やることが多くなり、やることが複雑になることは、決して衛生生活の進歩ではない。

 そういう考えをつきつめますと、一人一人が自分の体を管理し、その安全を保つことが為されるようになることが、依りかゝるものを多くし、寄りかゝる度合を強くすることより大事なことではなかろうか。

   

 大体わたくし達は、自分の手とか、自分の足とかいうように、手でも、足でも、胃袋でも、体は自分の持ち物なのです。心だってそうなのです。我々は自分の持ち物である体や心を使って、生きているということを全うしているのです。

 それが一旦病気になると、自分の体のほんの一部にすぎない胃袋がチョッと悪くなっただけで、すぐ何か自分が病気になってしまったように思ってしまう。腸だって自分の持ち物なのだから、便秘しているならそれに対して苦しむより、「柔かくも硬くもなく便がニューッと快く出る」と、そう腹にいって聞かせれば、快く太い大便が出るに相違ない。自分の体すら自分で思うようにならなくて健康を求めようとすることは違っていると思う。

 やはり自分の体や心の持主であるという自分を自覚させ、そういう立場で心身を使い統制していくことが大切だと思う。だから自分と体を混同して、体が患ったら自分が患ったように思い込んで慌てふためくことは可笑しなことです。これが自動車なら、調子がわるくなっても、どこか油がつまったに相違ないといって掃除します。油が足りないんだといって油をさします。自動車と一緒になって泣き悲しむということはしません。

 ところが自分の体になると、もっと身近なせいか切実感がありまして、自分が病人になったような気になってしまう。そういうつもりの人を病人でない立場にもう一回置いて心身を使っていく自分というものをハッキリ見させて、その角度から自分の心身の管理を行なわせるようにするということが、我々の第一にやることだと思う。

 片一方の足を無くしたって、わたくしはわたくしでしょう。両脚がないからといってわたはお腹が空きましたなんていわないでしょう(笑)。やっぱりわたくしっていう。だから体が自分でないことはお互い無意識に知っているのです。知り合っていることをもう一つハッキリさせ、ハッキリ角度をつける。つまり体や心の壊れていることゝ、その持主である自分が壊れていることを一緒にしてしまっている、それを分離する。

 人間まで患わせれば、病気が治れば、又病気になるんではないかといって不安になる、又痛くなるんではないかといって煩悶をはじめる。そんな腰の抜けた人間のまゝだったら、腰の抜けた相応の生活しか出来はしない。だからその病人根性をとってしまう。

 体が壊れていようと、心が乱れていようと、健全なる人間をそこに見つけ出していく。そうすることが一番大切な衛生様式でありましょう。人間の本性をハッキリさせるということ以外に、ある一部分だけの細工で健康を保たせることが出来ると思ったら、それは違う。やはり人間の本性を自覚するということが一番大切なことであります。健全なる自分、いや歪みようのない自分、侵されようのない自分を自覚させ、認めさせていく。  

技術を使う心 1

 今日から「整体指導とは何か」の集中講義を始めます!

 といっても、野口晴哉先生の講義の引き写しなのだが、野口整体とは何かを雄弁に語る内容なので、もっともっといろんな人に、整体を知っている人も知らない人も、野口整体ってなんか変?と思う人にも読んでほしいと思い、upすることにした。

 これは私が入門して、一年ほどたった時に読み感動した記事で、これまで、折れそうになったり、迷ったり弱気になったりした時に、何度もこれを読んできたが、その度に初心を取り戻させてくれたものだ。

 それでは第一回目、始めます。

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

 昨年の初等講習では活元運動や整体体操についてお話ししましたので、今年の初等講習では整体操法の「型」とでもいう可きもの、つまりやり方を説明して参りましたが、方法は会得したがそれを全体としてどう使うかという運用面についてはまだお話ししておりませんでしたので、今日は伝授会の筈ですが、この時間を利用して講習会の補足に当てたいと思います。

 

 人間が手で体を押さえるということは知識的な行為というより本能的なもので、例えば怪我をすれば思わず押え、お腹が痛ければお腹を押えるというように、思わず押えてしまう。これは世界中どこの国でも同じことで、押える理由を知って押えているのではない。知識以前の反射行動であり、本能的な要求によって無意識にやっていることである。痒いところを掻くのだって、みんな無意識にやっている。掻くと痒みのとれる理由を理解しての行為ではない。けれども痒いと思わず掻いてしまう。何か体に異常感があると手を当てる。まァそういうことが手当てという言葉の残っている理由だろうと思うのであります。

 ところが近頃のように生活が複雑になって頭が忙しくなってくると、異常を感じるということが外に気をとられて鈍くなってしまう。その結果、単に手を当てるだけでは治らないところ迄行って、はじめて異常だと自覚するようになってしまっている。

   

 ですから、人間が原始の頃のような心をもって体を使っておれば、つまり敏感な状態に戻しさえすれば、手を当てるだけで異常を経過するということが可能になる。そういうような異常に敏感な状態を保って生活することが今の人には特に大切な体の使い方ではなかろうかと、そう考えるのであります。

 では、異常があれば手を当てるだけで治るような体にするにはどうしたらいゝかというと、体が鈍った状態のまゝではまずい又体が鈍ってなくとも、心がよそ見をしたまゝではやはり体が鈍ったのと同じ状態になる。

 だから潜在意識の方向を正し、いろんな生活のために生じた体の歪みを正し、それによっていつも敏感な状態を保つように、整体操法とか、整体体操とか、活元運動とかいうものを行っているならば、いつでも敏感な体を保てる。そうすれば異常があったら手を当てるだけでいい。出来れば何もしなくとも健康を保てるような体にしたい。

 つまり異常感に敏感な、そうして異常を感じると一緒に自づと整っていくような体を保って生きたい。そういう体をつくってゆくことに、自然に具っている手を使うということを積極的に活かすにはどうしたらいゝかということが、整体操法のうまれた理由でありまして、昨日までお話ししましたことはそういう整体をつくっていく技術であると、先ずそうお考え願いたい。

 そうすると、生活するのに大事なことは体を敏感にし、その体自体のはたらきで生きていくことであることがお判りになる。今迄のように病気になるごとに体を鈍くし病気になるごとに片輪になり、又いろいろ工夫して病気に鈍感になるような方法が採用されているようでは、人間はだんだん鈍さをますより他ない。

 まして最近のように治すということが体のどこかを傷つけることによって行なわれているのでは、とても敏感な体は保てない。だから整体協会の仕事は、人間の自然の体を護ろうとする運動だというようにお考えになったら、もっと判り易いかもしれない。

…つづく