アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

技術を使う心 2

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

 整体操法の技術を、ある病気を治す為、他で治しにくい病気を治すために学ぶんだとお考えになったら、それは違うと思う。

 病気を治すことを目標にしている限り、それが巧妙に行なわれたとしても、治してもらう人の心の依りかゝりは大きくなります。それは効けば効く程強くなります。けれども自分の体はあくまで自分で管理しなければならない。その自分で管理する気持がなくなれば健康にはならない。だから人の不摂生の後始末を親切にする程に、その人は自立する気持を失ってしまうし、その人自身の持っている体の力まで失くしてしまう。その人が、自身の体の力を発揮すれば治っていくものを、依りかゝらせることによって発揮することが出来ない。だから病気を治すということを目標にしている限り、治療ということがどんなに上手に行なわれても個人個人の健康度は高まらない。

 逆にいえば、そういうことがあるという為に自分で自分の体を管理するという責任を放棄し、自分の体の力で生きられることを忘れて、依りかゝり、力の発揮をおこたり苦しいことを避け、楽なことを求め、自分の体の弱い責任を他のなにかになすりつけるような怠慢な生活をつくりだすようになる。これでは人間が独立して生きていくということが行なわれなくなる。

 だからその証拠には、衛生でも、養生でも、治療でも、みんな外から何かすることだと思われている。そうして外から何かすることを大がかりにし複雑にすることが進歩だと思われている。けれども人間の体の面から考えると、何かすることによって健康が保たれるということは退歩であって、何もしないで丈夫であり、何もしないで異常を切り抜けられる体でなければ、健康な体とはいえないのであります。だから他の何かに依りかゝる度合を多くするということは、依りかゝる人自身をフラフラにしてしまうということになる。逞しく自分の脚で行動することを教えねば、皆弱くなってしまう。

 そういう訳で、他の力で病気を治すということは、それが完全にできたとしても、みんなの健康度を高めるということにはならない。何かすることによってではなく、何もしないでひとりでに治ってしまうような、何もしないでいつも護られ、丈夫でいられるならば、それは進歩だといえる。やることが多くなり、やることが複雑になることは、決して衛生生活の進歩ではない。

 そういう考えをつきつめますと、一人一人が自分の体を管理し、その安全を保つことが為されるようになることが、依りかゝるものを多くし、寄りかゝる度合を強くすることより大事なことではなかろうか。

   

 大体わたくし達は、自分の手とか、自分の足とかいうように、手でも、足でも、胃袋でも、体は自分の持ち物なのです。心だってそうなのです。我々は自分の持ち物である体や心を使って、生きているということを全うしているのです。

 それが一旦病気になると、自分の体のほんの一部にすぎない胃袋がチョッと悪くなっただけで、すぐ何か自分が病気になってしまったように思ってしまう。腸だって自分の持ち物なのだから、便秘しているならそれに対して苦しむより、「柔かくも硬くもなく便がニューッと快く出る」と、そう腹にいって聞かせれば、快く太い大便が出るに相違ない。自分の体すら自分で思うようにならなくて健康を求めようとすることは違っていると思う。

 やはり自分の体や心の持主であるという自分を自覚させ、そういう立場で心身を使い統制していくことが大切だと思う。だから自分と体を混同して、体が患ったら自分が患ったように思い込んで慌てふためくことは可笑しなことです。これが自動車なら、調子がわるくなっても、どこか油がつまったに相違ないといって掃除します。油が足りないんだといって油をさします。自動車と一緒になって泣き悲しむということはしません。

 ところが自分の体になると、もっと身近なせいか切実感がありまして、自分が病人になったような気になってしまう。そういうつもりの人を病人でない立場にもう一回置いて心身を使っていく自分というものをハッキリ見させて、その角度から自分の心身の管理を行なわせるようにするということが、我々の第一にやることだと思う。

 片一方の足を無くしたって、わたくしはわたくしでしょう。両脚がないからといってわたはお腹が空きましたなんていわないでしょう(笑)。やっぱりわたくしっていう。だから体が自分でないことはお互い無意識に知っているのです。知り合っていることをもう一つハッキリさせ、ハッキリ角度をつける。つまり体や心の壊れていることゝ、その持主である自分が壊れていることを一緒にしてしまっている、それを分離する。

 人間まで患わせれば、病気が治れば、又病気になるんではないかといって不安になる、又痛くなるんではないかといって煩悶をはじめる。そんな腰の抜けた人間のまゝだったら、腰の抜けた相応の生活しか出来はしない。だからその病人根性をとってしまう。

 体が壊れていようと、心が乱れていようと、健全なる人間をそこに見つけ出していく。そうすることが一番大切な衛生様式でありましょう。人間の本性をハッキリさせるということ以外に、ある一部分だけの細工で健康を保たせることが出来ると思ったら、それは違う。やはり人間の本性を自覚するということが一番大切なことであります。健全なる自分、いや歪みようのない自分、侵されようのない自分を自覚させ、認めさせていく。