アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

技術を使う心 5

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

 病人になった人が病気を治そう治そうと思っている間は治りはしません。にらめっこしていて、それを無くそうとしたって、それは無理です。にらめっこしている程に相手は大きくなる。注意を集める程に大きくなる。時計の音だって注意しなければ聞えないけれど、注意すれば眠りを妨げられる程耳やかましい。

 だから病気だって、こういう徴候はここがわるいんだ、背骨が曲ってる、腰が曲ってると、いちいち気にして追っかけていたら、一生病気の続きですよ。完全無欠の状態なんて空想の中にしかない。探せば必ずアラがある。だから病人というのは病気と対立しているが故に、他の人が感じられないような何でもないことを病気として感じられる。注意が集まっているからです。だから病気を治そうと一生懸命な人程、健康になろうと一生懸命に努力している人達程健全でない。遠ざかっている。囚われている。

 だから病人はくどくどやかましくて、一寸動いても胸がドキドキしましたなんていうでしょう。普通の人だってそんなドキドキは沢山にあります。けれどもそんなこと忘れてしまっている。病人だけドキドキしたことを大切に思っている。注意する程にそれが過大に感じる。

 だから病気に注意し、健康になろうと努力し、病気と闘おうと思うような意識的な集中があまり行なわれゝば逆効果のもとである。だから治療する人に対して忠実な、又衛生の書物に忠実な病人というものは、健康になる機会を自づから放棄しているといえる。整体操法でもそうなんですよ。「まだこゝが曲っている」「今朝起きたら腰が痛かったから、腰が曲っているんじゃないでしょうか」なんていってやってくる人が沢山にある。それは異常に対しては敏感であるが、自分で治る力を持っていることを忘れてしまっている。それを教えなくてはいけない。

 正してやることが親切ではなくて、体は自分で調っていくことを教えなくてはいけない。まァどんなことでも過敏になればそうなる。私はオーディオといって、レコードの音を再生することに興味を持っておりますが、人間の耳というのは一万二千サイクル以上は殆んど聞こえない。せいぜい聞こえても二万迄であるが、二万とか一万八千とかいう音はあってもなくても同じようなものです。

 それにも拘わらず、その音が出るか出ないかでは費用でいえば何百万円という差がありますのに、その大がかりな設備を求め凝っている。自分でも時々可笑しくなりますが、こういう勢で病人が病気にこったら、何でも病気の材料になるんだろうナと可笑しいのであります。

   

 誰もいろいろな欠点を持ちながら生きていけるのは、それを乗り超える心や体のはたらきがあるからです。

 その乗り超える心や体のはたらきを開拓しないで、病気に気を奪われて、それを治すことに一生懸命になっているとしたならば、どんな努力したとて、それは整体指導とはいえない。やはりそれを乗り超える力を、心の中から、体の中から喚び起こさなくてはならない。

 乗り超える力があれば失敗はない。乗り超えられないから失敗なのです。乗り超えられゝば、それは成功への基礎なのです。病気だってそうなんです。乗り超えられゝば健康への道なのです。

 だから乗り超えられる力があったら、いくら壊れようが病気ではない。つまずこうと失敗したのではない。こうすれば失敗するということがわかったのだから、失敗が一つ減ったことになる。ただ乗り超える自覚のない者がクヨクヨしているだけです。だから私達はその人達のヘナヘナな気持の中から、それ等を乗り超えていく心や体の力を喚び起こし、認め出していく。そうしてその使い方を教えていく。

 どうぞ整体指導をそういうように御会得頂いて、あゝ押す、こう押すと、押す場所を憶えることにあまりムキにならないで、そういう技術を通して心や体の使い方をお伝え頂きたい。では之で―。