アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

野口整体を探究・実践する「整体生活」について

技術を使う心 3

技術を使う心

野口晴哉

『月刊全生』昭和40年5月号 広島講習伝授会記録

  潜在意識の中にいろいろな固定観念があったり、或いは余剰体力があって自分を示そうという意欲がありますと、意識しないうちにその人の動作をそういう方向に導いてしまう。だから自分は弱いと思い込んでいる人はその如く動作しております。体力が余って何か示そうとする意欲のある人はあらゆる機会に自分を示そうとする。だからそういう人が傍にいると何かザワザワする。

 だから突然「あさっての天気は晴れですか」なんて突飛な質問をする人がいたら、体力が余っていると見ていゝ。人間の中には、産まれた時にオギャーというように、もう始めから自分を主張しようとする要求がある。だからエネルギーが余ると我こゝにありという自己主張が激しくなる。

 だから、いろいろな病気の中にも、アイタヽヽという中にも、そういう要求が無いとは限らない。だから体が弱って病気になっているのだろうか、体の力が余って自己主張の方法として病気を訴えているのだろうか、それを確かめる必要がある。自己主張ならば主張しているものを別の角度で認めれば無くなってしまう。

 訴えなら訴えでその中にある欲しているものゝ方向を見つめさせれば無くなってしまう。だから人間の中にある自己主張というものは、病気の中にいろいろな形態で入っている。自信のなさか、体力の余りか、或いは主張したいことを正直に口でいえないために病気を訴えるのか。叱られて云い訳できないと、プッとふくれるでしょ。わざわざふくれるわけじゃないのだけれど、頬っぺたの方がひとりでにふくれる。そういうように体で表現するということが、病気の場合には沢山にある。

 だからその病気になりたい要求、病気を主張したい要求、そういったような心の一番奥にあるものは何だろうかと。それは確かに我こゝにありという自己主張には違いないけれど、何故わざわざそう出すのであろうか。自信のない為かも知れない。エネルギーが余っているからかも知れない。或いはそれを主張する方法を知らないからかも知れない。だから私達は、相手がイタイイタイと騒いでも、それを体の病気とみる前に、その以前の心の動きをつかまえようとします。

 体を押えたゞけでも治るけれども、それは一時のことである。それ以前にある要素、つまり病人になりたい心の角度を変えて、体の本来の力を発揮して経過出来るように仕向ける。そういう奥にある心を見逃して、イタイということだけしか、こゝを怪我したということだけしか見えなかったとしたら、それは間違いだと思う。同じ転んで怪我をするのでも、腰が悪くて転んだのか、親切に手当てをしてもらいたいためか、エネルギーが余っている為の自己破壊か、それを見究める必要がある。

 エネルギーが余ると子供は乱暴になりますネ。雨の日に部屋にとじ込めておくと、障子を破ったり、襖を破ったりしますネ。エネルギーが余るとそれを鬱散したい要求が高まって、それが破壊になるんです。その破壊現象を抑えられると、一番身近かな自分を破壊し始めるんです。ですから叱られるようなことばかりやる。自分を傷つけるようなことばかりやる。これが非行少年の生まれる理由で、生理的過剰エネルギーの為である。そういう過剰エネルギーで病気になっているとしたら、その過剰エネルギーを鬱散的に誘導しなければ、正当な指導とはいえない。

 ともかく私達は、行動以前にある心、行動以前にあるエネルギーを修正することが目的でありますから、相手のアイタヽヽというようなゼスチャーや訴えにひきずられるとしたら、病人に瞞着(まんちゃく)される行為だといえます。で、それを受け入れることによって病人が治るかというと、病人的要求はいよいよ強まるだけであります。治療行為だと称して、愈々(いよいよ)治療を必要とする病人をつくりだしていくことになる。

 私はそういうことはやりたくない。それ以前のものを対象にしてやっております。

※瞞着(まんちゃく)…あざむくこと、ごまかすこと。