アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

年上の友だちを亡くして思うこと

持ちのいい顔、悪い顔 

 数日前、昔の友人が亡くなったという連絡が入った。それもヒマラヤ(ネパール)の、富士山山頂ぐらいの場所でトレッキング中、あっという間に亡くなってしまった。

 もう長いこと会っておらず、連絡も途絶えていたのだが、私はこの人が大好きだった。私より年上の女性で、人を受け入れる器が大きい人だった。

 Hさん、としておこう。Hさんは京都の人で、たしか日本舞踊か神楽舞を長くやっていた関係で、舞台の衣装や小道具の仕事をしていた。都おどりの仕事を長年していたので、芸妓たちと接することも多かったようだ。出版社でも仕事をすると言っていたが、ちょっと不思議な人だった。

 Hさんと出会った頃、彼女は私の顔を見て「あんた、ええ顔やナ。美人ゆうのとは違うけど、これは持ちのええ顔やで。」と言った。持ちの良い顔?当時、私は若かったので、どういうことなのか聞いてみると、いわゆる美人という種族は「持ちが良くない」、長持ちしない人が多いのだという。

 その点、私の顔は年齢がいってもあまり変わらない「長持ちする顔」で、芸者や役者もそういう顔の方が長く仕事ができるということだった。

 私はまだそういう観点で顔を捉えたことがなかったので、「うーん、なるほど!」と感じ入り、なんだかうれしくなった。「美人ゆうのとは違うけど」という言葉は切り捨ててしまうのだから、勝手なものである。

 整体を始めた後、私は美容整形を行う医師と親しくなったのだが、彼曰く、「美容整形はもともと美人の人がやるもの」なのだそうだ。確かに私が美容整形するとしても、どこから着手すれば美人になるのか思いつかない。しかしもともと美人ならば「ここを治せば完璧」というのが分かりやすいし、変化も大きいのだろう。それで気に病んでしまうことにもなるのかもしれない。

 この話を聞いて、私はHさんが「持ちのいい顔」と言ってくれたことを思い出し、「やっぱり持ちのいい顔の方がいいなあ」と思ったのだった。

 Hさんと出会った場所は中国西南部にある雲南省昆明市、そこも富士山七合目ぐらいの高地だった。足が強くて、健康そのものに見える人だったけれど、私は彼女がちょっと苦しそうに胸を押さえるのを目にしたことがある。心配になって「大丈夫?」と聞くと、彼女は「時々こうなんねん」と言っていたから、もともとの素質があって、今回亡くなることに至ったのかもしれない。

 彼女は当時からネパールが好きで、ヒマラヤで亡くなるというのは、彼女らしいような気もする。「無心」というか、独特の澄んだ心の持主で、虚空蔵というか、天空とつながっているような気がした。料理上手で優しく、女性らしい人だったけれど、裡にはどこか女離れしたところもある人だった。

 Hさんは享年67歳。早いと言えば早いけれど、彼女のことだから、まっさらな心で、新たな次元へ旅立っただろう。葬儀は神道で行うとのことで、神道の持つ清明さは、彼女に似合うと思った。

 でも、やっぱりこの世から彼女がいなくなるのは寂しくて、何だか、良い人から先に連れていかれてしまうような気持にもなった。すぐ近くにいて、いつでも会えた頃、私は自分を開くことで相手とつながるというのができなかったから、彼女に甘えたいのに甘えられないような気がいつもしていた。もっともっと、話がしたかった。彼女のことを知りたかった。

 今ならそうできるのに、彼女はもういない。後悔しない生き方をするには、開かれた自分でいることが大切なんだな、と思った。