アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

自然な死とは―死についての対話 2

自然な死とは

 前回書いたようなことを書くと、やっぱり私も落合×古市氏対談のように「僭越」と批判されるのかもしれない。それぐらい、死については人それぞれの思いがあって、一つの枠に収まることではない。

 でも、いつか死を受け入れなければならない時が来るのに、「生かそう」とする人、死を拒む人しか周りにいなかったら、孤独を感じるのではないだろうか。

 だから私は、整体の先生が死に向かった時、すぐにそれを受け入れられなかった自分を痛切に反省している。そして、遺された者が悲しみを超えるにも、死生観があることは大きな支えになると思うのだ。

 これを書いていてふと気づいたのだが、私は以前、先生が最期の日、病床で右肺(レントゲンで機能していないと言われた)が弛緩する姿勢を取っているのを見て、驚いたことを書いた。今思うと、あれは死を受容するためだったのではないだろうか。

 弛むということは自然に順うことなのだ。生きる人は生きる方向へ、死ぬ人は死ぬ方向へ、「自ずから然り」を受け入れるための体の智慧なのだと思う。だから生きている時に、自分の自然をつかまえなければ、自然な死もない。

 整体指導者だからと言って、病院に行ってはいけないということはないし、家族は入院してほしいと思う場合が多いのかもしれない。

 ただ、亡くなる数日前まで指導をするという生き方は、病院に行っていたらできなかった。

 野口晴哉先生は指導者向けの講座の中で「今、がんが見つかっても何も(生活を)変えないし、最後の最後まで指導をする自信がある」と言い切っている。弟子である先生も、そのようにするのが、自分の自然だったのだと思う。

 私が今、死が近いと分かったら、どうするだろうか。

 やはり私も整体馬鹿らしく、死を先延ばしにするのではなく、「死ぬ時が来るまで生きる」という姿勢で、最後まで生きたいと思っている。

 

 (補足)整体とは

・・・心を静かにしてぽかんとしているだけでは駄目であって、もう一つ体の中の要求をみな感じ取ってそれを運動に表現していく、それが放っておく状態でなくてはならない。

・・・我関せずという無関心は、放っておくという意味にはならない。

・・・要求をみな運動として表現して、心の中のいろいろなものを、乱れを残さないままに静けさを保っておく、天心を保っておく。

そういう心身の状態にもっていって、そしていろいろな変動に処していく、経過するのを待っている。

何もしないで待っているのとそれは違うのであります。

・・・整体の示すところは、いろいろな病気の中で尚、自然を保つということ、静けさを保つということであります。

どんな瞬間にも息を乱さないで、静かに要求を生かすということが理想であります。死ぬまでそうしたい。 

野口晴哉

 (1974年・亡くなる二年前の講義。私の師は1975年四段位取得)

死生観をもつ―死についての対話 1

 死生観をもつ

 今年の始めごろ、落合陽一氏と古市憲寿氏が行った対談(『文學界文藝春秋)で、後期高齢者の終末期医療の問題について語った内容が批判を浴びるという出来事があったという。先日、その記事を今頃になって読む機会があった。

「医療費削減のため、後期高齢者の終末期医療は保険適用外に」といった発言が問題になったようだ。もう終わった話ではあるが、こういうことはもっと別の次元で、個人が、自分で考えることではないかと思う。この二人も「自分はどういう選択をするか」を含めて発言する方が良いと思った。

 病院による違いはあるが、 少なくとも今、現場でどうするかは医師がすべて決めるのではない。自分か身近な人が決断しなくてはならないのだ。

 ユングは30代後半を「人生の午後三時」と呼び、老いや死が自分と無縁でないことを意識し、内面に向かう傾向が出てくる年代だと言った。今は精神年齢が若い(幼い?)から、40代後半かもしれない。

 またユングは、「人は(特に老人は)死についての神話をもたねばならない」と言う。これは日本で言えば死生観を持つことだ。

 以前に少し書いたことがあるが、私は88才男性の整体指導をしていた時がある。

 その人(Oさん)がある時、井深大ソニー創始者)氏が自身の死生観について、「母なる宇宙のもとへ帰る」と語っている(録音)のをラジオで聴いたと言い、「それを聞いて初めて死というものにいいイメージが持てた」と本当にうれしそうに話してくれた。

 その少し前の指導では、Oさんは子どもや孫たちが誕生会(米寿の祝い)をするのを嫌がり、結局嫌々付き合ってしまって体調を崩すということがあった。

 その時、Oさんは家族が「元気で長生きしてね」とか、おめでとうなどというのが白々しいと言い、誕生日なんか、死ぬのが近づくだけなのに、何がめでたいもんか、と本気で言うのだ。

 また、それ以前にもOさんは「もう死んでもいい」などと言うことがあって、私は「これじゃまだ死ねない!」と切り返したこともある。

 でもその時は、「ああ、老いるのって辛いし、死ぬのって寂しいことなんだな・・・」と、少し悲しかった。偏屈と言われても、若い人には分からない感情があるのだ。

 だからOさんが、「母なる宇宙のもとへ」という死生観を持てるようになったと聞いた時、本当に良かった・・・と思った。井深大氏の語る世界観(ビジョン)はやはり偉大だ。人を動かす力がある。

 Oさんには、小学校に上がる頃、警察官だった父親が朝鮮半島に赴任し、父に連れられ母親と離れて外地で過ごした経験があった。

現地には朝鮮人の妻がいて、その人は可愛がってくれたそうだが、数年後に帰国した(滞在年数ははっきりしないが戦争中に日本で旧制中学入学)。

その後、家庭の中が不和になり、子どもが床に入った後、夫婦げんかで母親がヒステリックな声を上げると、Oさんは全身が凍りついたという(指導の時、不意に思い出したと話してくれた)。

 そういう背景もあって、母なるものに回帰するという死生観は、Oさんの無意識的要求に適ったものだったのだろう。

 その後Oさんは、苦しそうな延命措置は受けずに、楽に死ねるにはどうすればいいかと言い始めた。

 Oさんは脊椎が曲っていて、骨盤もかなり下がっていたので一人では仰向けになれなかったが、指導で弛むと仰向けになっていられるので、よく不思議がった。(註)

 そこで私は、「脱力すること」を教えるようにした。いよいよという時は、今の状態を思い出して、心を落ち着けて、ゆっくり呼吸し、体の力を抜く。これを寝る前に練習することを勧めたのだ。

 また、「小さい時好きだったもの(九州の郷土食と極上キムチ)が食べたいが、近くで手に入らないし贅沢かと思って言えないでいる」と言うので、そういう時こそ子どもや孫に頼み、「お取り寄せ」して食べるように勧めた。

 その8か月ほど後、Oさんは救急搬送され、緊急医療を受けることなくそのまま亡くなった。

つづく。

参考文献 ユングユング自伝2 思い出・夢・思想』(みすず書房 1973年)

(註)Oさんの身体の歪みや硬張りは、長期に亘る偏り運動習性の固着による。程度の差はあるが、偏り疲労(力が入ったまま脱力できない部分がある状態)が弛むと、高齢者も背骨は伸びてくる。

 

正坐と整体

正坐ノスゝメ

  野口整体では「型」の基本として「正坐」があり、活元運動、愉気操法、多くの場面において問答無用で正坐をする。そのように決められているからというより、正坐でないとできないのだ。

 野口晴哉先生は昭和の初めから「正しく坐すべし」と正坐を勧めているが、web検索してみると、正坐が正式な坐法と定められ、正坐という言葉が定着したのはけっこう新しいことのようで、1941年に当時の文部省が定めた・・・などという記述が出てくる。

 確かに私の実家のある地方では、年配の人は「正坐」ではなく「かしこまる」と言っていた。「畏まる」という意味だろう。もともと、正坐は日常の坐姿ではなく、神や仏の前で手を合わせる時の姿だったという。

縄文の土偶古墳時代の埴輪、神像などに正坐が見られ、おそらく名前もなく非言語的に伝わっていたのだろう。日本人が神仏への「畏敬」を表現する時、身体的に正坐とい う形を取るのだと思う。

 私は学生の時、上代文学(万葉集古事記日本書紀の時代)を勉強しており柳田国男折口信夫を読んだことがある。そしてアイヌと日本人は民俗学的に非常に近いことを知った。

アイヌ助産と治療についての本『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ』(青木愛子・長井博1983年)にある写真では、アイヌの神儀においても正坐をしており、助産の際の基本姿勢も正坐だ(大正三年生まれのおばあちゃんは学校教育を受けておらず文盲に近い)。

 アイヌにとって助産や治療は神(カムイ)を前にしての神聖なわざだった。野口晴哉先生は「整体操法は生命に対する礼である」と言ったが、これは整体操法の型としての正坐、また活元運動の際の正坐を考える場合、非常に興味深いと思う。

正坐の良さというのは、実は「何も考えない」、整体で言う「頭がぽかんとする」感じに近い状態になる点にある。頭がすっきり、意識がはっきりするのだ。

 ただ、関節可動性(仙腸関節、股関節、膝、足首など)が硬張っていたりするとつらいし、重心が高いときちんと腰が下りないのでよけいに疲れてしまうのも確かだ。でも、「文部省が一方的に決めた無理な姿勢」と片付けてしまうことはあまりにも勿体ない。

 いつか読んだ月刊全生では、野口裕介先生か裕之先生のどちらか(失礼で申し訳ありません)が、お風呂(バスタブ)の中で正坐をする練習を勧めていた。

私がやってみたところ、これは良い練習になる。浮力で足が痛くなることなく、正坐の良さが味わえる。お湯はちょっとぬるめ、量は少なめの方が良い。

 そして今、日常生活の中では椅子に腰かけることが多いので、まず座骨を座面に着けて坐ることから取り入れてみると、正坐がしやすくなる。

坐る時の焦点は坐骨にあって、まず床に足を投げ出して坐り、体重をゆっくり左右にかけて坐骨の位置を確認し、覚えておく。それがいつも座面につくように坐る。

 こうして、肩の力を抜いて、背骨が骨盤の上に立つように気をつけていると、自ずと腰で体重を支えるようになり、重心が下がってくる。

 こういう実践をしつつ、正坐をすると、正坐の良さ(頭すっきり)がだんだん味わえるようになると思う。

 短い時間でもいいから静かに坐る時間を持つのはとてもいいことで、特に眠る前に目を閉じて正坐すると、忙しく働いていた頭が静まって瞑想になり、熟睡しやすくなり、二度寝予防にもなる。

 また、食事の時も坐骨を意識して坐ったり、正坐をしたりすると食べ過ぎ予防になる。頭がすっきりすると味がよく分かるし、腰のはたらきでブレーキが利く。

 ちょっとhow to的になってしまったが、、座骨と正坐から「体から心へ」の扉を開いてもらえたら・・・と思う。

体癖―要求と行動

体癖と人間の自然

 これまで二回ほど「体癖」について書いたが、最近、精神科医や心理学者の先生が書いた体癖についての本が出ており、以前に比べると「体癖」も知名度が上がってきたようだ。

 自分の体癖が分かると興味も出てくるし、人間観察としての体癖はやっぱり面白い。しかし、最初の「つかみ」は良くても、実際に人間の中で動いている体癖を観るのはそれほど簡単ではないし、相手を理解するとなると身近な人ほど難しい。夫婦喧嘩の時、体癖を攻撃材料にしてしまう人までいる。

 体癖の中心にある主なものは「要求を実現する運動の様式」だ。野口晴哉先生は要求とは生命であり、生命の方向に個性がある。これをまとめたのが体癖特性だ、と言う。

 食べる、という要求は誰にもあるものだけれど、例えば煮物・焼魚・ごはん・味噌汁・漬物がテーブルの上に出されたとする。

 野口先生は九種体癖のある人は「料理にこもった心(気)」をまず感じるという。そして実際に食べる段になると、二品あるおかずのどちらかを全部食べてからもう一品を食べる。同時進行で少しずつ順番に食べるということはない(気取ってそうする場合はある)。

 ひどい時は、テーブルの上に載っているものを一つずつ片づけていく。煮物、焼魚、ごはん、味噌汁、漬物という感じだ。まるで懐石料理のように一つのものに集注して食べる。それでいて丼物のようにひとつにまとめて盛られるのは嫌なのだ。しかも食べるのに速度があり、ものも言わずに食べてしまう。

 このように「食べる」という要求を実現するための運動には、人によって特徴があるのだ。さらにその運動(食べ方)の奥には九種体癖の「集注する」という要求があって、集注することで充たされる。

 だから母親が三種体癖のある人だったりすると、九種の子どもの食べ方が異様に見え、食べ方を変えさせようとすることがある。

 そうすると子どもは集注できないので、不満で食欲が失せ、食べることに快感がなくなってしまう。こうして要求と行動が離れ、食を乱してしまうこともある。

 今、私が出している例は些末なことだけれども、現実にはいろんな場面でそういうことがあって、要求が自然に行動になるというのは意外と少ないものだ。

 それに、要求は、体が偏ると過剰になり、要求を充たそうとする手段が歪むこともある。九種の食べ方も、注意が集まらない状態で作った料理を拒絶したり(作る側にも体調があることを忘れる)、体が偏ると過剰な速さで食べてしまい、味がよく分からないということもある。また要求を感じても、それに背いたり行動に移せなかったりすることもあるし、分からなくなってしまうこともある。

 体癖に「体癖修正」がつきものなのはそのためで、何種と判断しタイプ分けしたり、何種の人はこうです、と対処法を決めるために体癖があるのではない。

 体癖を学び始めた頃、「体癖は人間の内と外をつなぐ着手の処である」という野口先生の言葉にはっとした。要求と行動、どちらにも乱れや偏りがなくなれば、要求と行動は一つになり、裡の自然を、調和を保って外に実現していける。

 体癖修正は、体を整えるということなしには不可能なので、一般書でそこまで踏み込むことは難しいのかもしれないが、「人間の自然」は抛っておいては保てないということも、知ってほしいと思う。

本来の体育―生活している身体とスポーツする体

身体感覚が退化しつつある現代と整体

 私は1970年代前半の生まれだが、小学校6年生の時、担任の先生から「転んだ時、とっさに手をつくことができない子どもが増えている」という記事が新聞に載り、問題になっていると聞いた。

 この先生は体育の時間に演劇の身体訓練や野口体操(野口整体ではない)をやったり、相撲やSケン、馬飛びなど、体を使った遊びを体育に取り入れたりする先進的な先生であったので、そんな話をして下さったのだろう。

 そして私たちはおそらく、体育で「転ぶ練習」をした始まりの世代だったと思う。少し前の世代まで、意識されることもなく子ども同士の遊びの中で身につけていた「当たり前」の身体能力、身体性が育つ環境が子どもの生活から失われて始めていた。

 2000年に斎藤孝氏の『身体感覚を取り戻す』『自然体の作り方』などが出版され、身体の問題が注目されるようになった。しかし今、さらに深刻化し、体育そのものを根本的に考えなければ健康維持や社会生活にも影響する段階に来ており、「体ほぐし」「体あそび」をもっと体育の時間に行なうのだという。

 スポーツの世界では、世界に通用する選手が次々と現れ、日本人の身体能力は向上していると思う人もいるかもしれない。しかし、競技スポーツの世界と、一般の生活世界でのことは違う水準の話として考えなければならないことだ。

 しかもこのような身体能力がなくとも、頭だけ使って受験勉強をする上ではあまり問題にならないので、どれほど深刻な問題なのかは、本人が大人になってからでないと自覚できないのだ。

 余談だが、私は中学3年の時、スポーツは全く苦手で走るのも遅かったが、全学年で2000m級の登山をした時は2番だった。1番は野球部のエースだった男の子で、私を必死に追い抜いたのだった。

 私は彼に抜かされるまで自分が一番だということに気が付かず、頂上で彼に不思議な動物を見るような目で見られたことを今でも覚えている。3番はずっと後に到着し、やはり野球部の男の子だった。

 私は小学校6年位の時、祖父に「体育は苦手でもいいが足腰は鍛えなければならない」と言われ、普段、階段の上り下りなどは足腰に負荷がかかるようにするなど気をつけていたが(校舎は四階建)、だんだん足腰のばねが出てくるようで気持ちが良かった。そのことと体癖特性(骨盤部が強い)の両方があったと思う。スポーツ技能とは違う身体能力(日本的足腰)というのもあるのだ。

 話を元に戻すと、競技スポーツの身体訓練ではない、健康のための運動、体を育てるという意味の「本来の体育とは何か」という問題は野口晴哉先生が取り組んできたことだ。

 スポーツが悪いというのではなく、スポーツ技能とは違う身体能力があり、それが健康保持のため、また生きる上で必要なのだ。その中心にあるのが身体の内側を感じる「身体感覚」である。

 生理学的に言うと、身体感覚は「体性内部感覚」と「四肢の運動感覚」の二つの総称で、全身内部感覚とも言う。

 身体感覚は体の状態を自覚するための感覚であると同時に、裡から発する動き(感情・要求)を自覚するためにも必要不可欠で、身体感覚は「体の言葉」と言えるものだ。

 始めは快・不快のみだが、それが分化し発達していくことで自分という存在の基盤となる。

 外界を捉える外界感覚(五感)も大切だが、それが正常かどうか(鈍りと過敏・感受性にゆがみや偏りがないか)の吟味は身体感覚による。

 自分が何を感じているのか、まず、落ち着いて自分の内側に注意を集めること。良い悪いとか、環境や他人のせいではなく、自分を内側から把握すること。それが「自分の体を整える」始点にある。 

(註)身体内部感覚(身体感覚)

  • 体性内部感覚 皮膚感覚・平衡感覚・内臓感覚(内臓→脳へ)・深部感覚(体の各部分の位置、運動の状態、体に加わる抵抗、重量を感知する感覚)
  • 運動感覚 体性神経の中の求心性回路(筋肉・腱→脳へ)

裡の自然と治癒 2

ラオスの思い出 2

 北上して中国国境に近づくと、山岳民族が多くなってくる。私はベトナム戦争時代に「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれた地域に入った。ここは戦争中、アヘン(阿片・opium)の一大産地だったところで、まだその当時、その影響が残っていた。

その地域では、もともと伝統医療がしっかりとあったのだが、アヘンが大量生産されるようになって、人々が体調を崩すとアヘンを吸うようになってしまったのだ(もともとアヘンを吸う習慣のある地域だが、そこまでのことはなかった)。

 このような事情で、当時は日本の医療援助が入っており、旅行者に使わない薬(マラリア予防薬や鎮痛剤など)の寄付を呼び掛けていた。

 私は現地のゲストハウス(民宿)で一人のドイツ人男性と知り合った。彼はカイロプラクティックとハーブ療法などを行う人で、医療援助のため現地に入っていたのだった。

 私は日本とは違う、ドイツの合理的?なやり方に驚いた。東洋医学の先生を派遣するという援助もあったのかもしれないが、あまり聞いたことがなかった。しかし実際には、医療器材も薬も不要な、手技療法の方が役に立つのだという(その頃、村では電気も夕方5時から9時までしか使えなかった)。

 治療家の彼は、伝統医療が根絶やしにされ、アヘンを吸うことしか知らない山岳民族の現状を嘆き、「ここには治療がないんだ」と言った。彼は西洋の技術を使うより、伝統医療を復活させる方がいいと言い、そういう活動をしている団体があるという。

 私は次の日、その団体の活動場所に行ってみることにした。あいにくスタッフは外に出ており、資料と写真の展示を見るだけになったが、心を打つものがあった。

 山岳民族の多くは、仏教とは違う独自の自然崇拝的世界観を持ち、かつてはその世界観に基づく伝統医療をシャーマンが行っていたし、一般の人々にも健康のための伝統智があった。

 伝統医療を取り戻すことは、彼らが伝統的な世界観を取り戻すことなのだ。問題はアヘンを吸うことではなく、芥子(原料)畑を作るために森を失い、かつて持っていた自然との一体感を失ったことにあるのではないだろうか。

 これは後になって学んだことだが、河合隼雄氏は、自然を神としてきた伝統を持つ日本人にとって、自然環境の破壊は伝統的な世界観と宗教性を失うことを意味しており、意識と内なる自然(無意識)との分離と心の荒廃をもたらしているという。

 これと同じことが、ラオスの山岳民族にも起きていたのだと思う。

 その村は静かで、朝しか開かない小さな市場には、一人の精神を病んだ男が住み着いていた。電化製品はないけれど、市場に来る人には、少しずつ皆で負担して、その男を養う豊かさがあった(私がラオスで見かけた浮浪者はその人と、後二、三人だけ)。

 そんな穏やかで美しい村でも、伝統医療が失われているという現実があることを知ったのは、良い経験だった。

 その後、私は整体を勉強するようになり、野口晴哉先生が戦時中、疎開先で医師と電気治療をする人に出会った時の話を著書で読んだ。

 その二人は「薬も機械もないから仕事ができない」と言ったが、野口先生は「自分は手があればどこにいっても仕事ができる」と言った、という内容だ。私はラオスで会った、ドイツ人の彼のことを思い出した。

 あの時、彼は「アヘンで痛みを止めるのは治癒ではない」と言った。鎮痛剤をすぐ服用する日本人も、「裡の自然」を取り戻すことが治癒なのだということを、忘れてはならないと思う。そして野口整体が、日本人の心の伝統につながる智であることを、より多くの人に知ってほしいと思う。

 

裡の自然と治癒 1

ラオスの思い出 1

 私は昔々、20代の頃、ラオスを旅行したことがある。タイから陸路で首都ビエンチャンに入り、陸路で北上して中国の雲南省に入るルートだ。バックパックで一人旅の貧乏旅行だった。

 当時の首都ビエンチャンは、お隣のタイとは全く違い、道路も舗装されていなくて、本当に仏印時代(フランス領インドシナ・植民地時代)さながらの雰囲気だった。

 実際、この数年前に「愛人」というマルグリット・デュラスの小説が映画になった時、小説の舞台は仏印時代のベトナムだが撮影はビエンチャンで行われたと聞いた。

 子どもたちは皆、古布で作ったサロンという民族衣装を着ていて、「サバイ・ディー(こんにちは)」、「ボンジュール(フランス語!)」と、恥ずかしそうに声をかけてくれる。

 洗いざらしで古びているけれど手つむぎ、手織りの綿や絹のサロンで、伝統柄のせいもあってか、子どもたちにもどことなく品があり、かわいいというより美しかった。

 

一般の家のトイレもお寺も、通りもどこも清潔だった。仏教があらゆるところに、空気のように浸透していた。時間はゆったりと流れ、軒下で機を織り、せかせかした人はいない。

自然も豊かで、スコール後の水たまりには蝶の群れが舞い降りてくる。護岸工事のない河がとうとうと流れ、渡るのも江戸時代のような竿を使う木の渡し船だ。

古い日本というのは、こんな風だったのだろうか、と切なくなるほど美しかった。

 そんな小さな渡し船(3~4人乗り)で、私は西洋人の中年男性と乗り合わせ、到着前にお金を払ったことを咎められたことがあった。その人は「それ(到着後に払うこと)が西洋社会のルールだ」と堂々と言い、私はその自信を持った言い切り方に驚いて言い返せなかった。

 当時、まだ日本人旅行者は少なかったが、なぜか私は運賃などが現地人価格で、白人は外国人価格だった。そういう植民地時代の名残もあって、対立的になるのかもしれないが(旧日本軍も入っていると思うがラオス反日的ではない)、西洋人というやつは、ほんとに・・・。後で「何様!」と腹が立ってしょうがなかった。今なら「ここは東洋だ!」ぐらいのことは言えるだろうか?

 地方の小さな市場には各自が作った野菜や果物、お惣菜などが控えめに並べられているだけで、大量の物資というのはなく、服も手織りの布地が個人的に売られていることがほとんどだった(共産圏なので仲買がなかったのかもしれない)。

つづく。