アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

裡の自然と治癒 1

ラオスの思い出 1

 私は昔々、20代の頃、ラオスを旅行したことがある。タイから陸路で首都ビエンチャンに入り、陸路で北上して中国の雲南省に入るルートだ。バックパックで一人旅の貧乏旅行だった。

 当時の首都ビエンチャンは、お隣のタイとは全く違い、道路も舗装されていなくて、本当に仏印時代(フランス領インドシナ・植民地時代)さながらの雰囲気だった。

 実際、この数年前に「愛人」というマルグリット・デュラスの小説が映画になった時、小説の舞台は仏印時代のベトナムだが撮影はビエンチャンで行われたと聞いた。

 子どもたちは皆、古布で作ったサロンという民族衣装を着ていて、「サバイ・ディー(こんにちは)」、「ボンジュール(フランス語!)」と、恥ずかしそうに声をかけてくれる。

 洗いざらしで古びているけれど手つむぎ、手織りの綿や絹のサロンで、伝統柄のせいもあってか、子どもたちにもどことなく品があり、かわいいというより美しかった。

 

一般の家のトイレもお寺も、通りもどこも清潔だった。仏教があらゆるところに、空気のように浸透していた。時間はゆったりと流れ、軒下で機を織り、せかせかした人はいない。

自然も豊かで、スコール後の水たまりには蝶の群れが舞い降りてくる。護岸工事のない河がとうとうと流れ、渡るのも江戸時代のような竿を使う木の渡し船だ。

古い日本というのは、こんな風だったのだろうか、と切なくなるほど美しかった。

 そんな小さな渡し船(3~4人乗り)で、私は西洋人の中年男性と乗り合わせ、到着前にお金を払ったことを咎められたことがあった。その人は「それ(到着後に払うこと)が西洋社会のルールだ」と堂々と言い、私はその自信を持った言い切り方に驚いて言い返せなかった。

 当時、まだ日本人旅行者は少なかったが、なぜか私は運賃などが現地人価格で、白人は外国人価格だった。そういう植民地時代の名残もあって、対立的になるのかもしれないが(旧日本軍も入っていると思うがラオス反日的ではない)、西洋人というやつは、ほんとに・・・。後で「何様!」と腹が立ってしょうがなかった。今なら「ここは東洋だ!」ぐらいのことは言えるだろうか?

 地方の小さな市場には各自が作った野菜や果物、お惣菜などが控えめに並べられているだけで、大量の物資というのはなく、服も手織りの布地が個人的に売られていることがほとんどだった(共産圏なので仲買がなかったのかもしれない)。

つづく。