アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

病症を経過する

 三回目の会の後、私は整体の先生と私の体の状態が、非常によく似ていることが気になり始めていた。もともと、性差の違いは大きいものの、本当によく似ていて、体癖も非常に近く、左重心で、ものごとの受け取り方、感覚や好みも似ていて、手の形まで似ていた。先生も「お前はわしに似ている」と言っていたが、良くも悪くも、という意味があったのだと思う。世渡り下手も(これは先生の方が上かな?)、腰椎三番の力がちょっと弱いという弱点も似ていた。

 これは私が入門して数年たったころに先生から指摘されたことで、先生も入門当初、野口晴哉先生に指摘されたことがあるという。血のつながりはないのに、「体癖は血よりも濃い」(野口先生の言葉)というのはこういうことを言うのだろうか。

 これまで「似ている」というのは私にとって嬉しいことだったが、三回目の参加の後から、先生が晩年、体調を崩し始めてからの偏り疲労によく似た状態が自分に色濃くあって、そこから自分が抜けられないことがはっきりしてきた。これにはちょっとたじろいでしまった(その理由はもうちょっと整理がついたら書こうと思う)。

 今回、あまりないことだけれども、個人指導の途中で月経が来て、それと同時に風邪が始まり、時々微熱が出るだけではっきりした熱は出ず、月経中も骨盤に開閉異常を感じたの方ので、月経終了に合わせて活元運動をしながら骨盤の調整をした(4日目夜)。全体に経過が非常に悪く月経終了後も風邪は抜けなかった(平均化体操の会に行った時、風邪は6日目)。

 平均化体操に行った後、経過にどんなに時間がかかっても、なにもしないで待つことに決めた。すると二日後の夜、寝ようと思って明かりを消したら、突然両耳の奥が痛くってきて、結構ひどい痛みだったので頸椎を調整した(一晩寝たら痛みはすっかり治まった)。

 その後、アキレス腱下部から踵にかけて、足が着地すると痛むようになったので、座骨からアキレス腱(脚の裏)を伸ばすストレッチを数日間行なった(二日で痛みはなくなった)。この二つ以外は何もしなかった(活元運動は2回ほどした)。

 こんなふうに書くと平均化体操をやったから痛くなった、と思う人がいるかもしれないけれど、そういうことではない。これはもともとあった偏り(鈍り)に気づいたことによる。

 病症を経過する上で大切なことは、鈍っていたために感じていなかった異常感が出てくることだ。こうして異常感が出て回復要求が起こる。そして治癒へと向かうのが「正常な経過をたどる」ということで、体の弾力はこうして取り戻すことができる。

 抜けたな、と思ったのは18日目が過ぎてからで、自分の体が戻ってきたような気がした。

 野口先生の『風邪の効用』という本は文庫にもなっているのでご存知の方も多いと思うが、その中に、

 

 早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい。できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。(野口晴哉『風邪の効用』筑摩書房

 

という一文がある。

 今回の私は「敏感な体の状態」の状態ではなくなっていたために、経過が悪かったということは反省しなくてはならないが、体の「弾力性を恢復させる機会」でもあった。

 先生が亡くなる半年ほど前から、葬儀、そしてその後にも、さまざまな悲しみや失望、怒りがあった。でも風邪の経過とともに、そうしたことが自分の中で終わっていくのを感じる。

 病症経過の中で、それ以前の身心の状態に気づくことを通じ、心の自然を取り戻していくこと。そして症状を通して感情が鎮まることで、記憶が整理され物事を終わらせることができることを教えてくれたのは、先生だった。やっぱり先生は私の中で生きていているのだと思う。

※体癖と偏り疲労のことをつい書いてしまったけれど、説明はまた後日。註では説明しきれない。

 

平均化体操の会三回目

 クラスが始まる前に、講座申し込みのことを先生に聞いてみると、OKが出た。内心、私の先生の名前を出すと整体協会の先生は引くのかな・・・と思っていたけどそうでもなかった。

 でも、せっかくOKがもらえたのに、私は何となく浮かない気分だった。風邪の経過がいつになく悪くて、倦怠感が抜けないこともあるが、さっき先生に、自分が整体の先生の弟子であり、先生が亡くなったと言ったことをなかったことにしたいような気になっていた。こうして三回目のクラスは始まった。

 この日の課題は、「押す」だった。初回にも押すのには驚いたが、これまでは相手の力に合わせて押すというちょっと逃げたやり方をしていた。今回は相手の人に思い切り押すように促され、初回よりももっと力を入れて押すようにしてみた。相手の人は腕に力がある人のようで、大丈夫かと思うぐらいに押しても平気な様子だった。

 ひとしきり終わると、体に力が入らなくなってきたが、基本動作の時間はまだ続いた。私はだんだん、自分が「押す」という行為に抵抗があるのだということが分かってきた。そしてなぜこんなにも力を入れて動作しなければならないのかと思いはじめた。

 こうして最終的に分かったのは、私は人を「押す」のが内心怖いのだということだった。その詳細はちょっと控えるが、今の私に習慣づいている「押す」に対する感じ方は、痛みや過敏のある人に合わせたもので、それで怖いと感じるようだった。

こんなことにはたと気づいてしまい、自分としてはショックだった。愉気の時にそうするのは当然だが、そうではない時に、怖くてできないというのは、自分が自由を失っているということだ。

 他の参加者は、自ら手を伸ばし、互いに手や体を押し合うことで、緊張を解放している。やってあげる人・やってもらう人の区別もない。身体の力、体温、弾力を互いに感じ、安心感がもてることの意味は大きい。私はそれをこの体操の他にはない良さだと思い始めていた。それなのに、私はそれができないのだった。

先生は様子を見ていたようで、結局、上のクラスに行くのは様子を見て・・・ということになった。

私はつい、先生に「私、これできない」と言ってしまった。ちょっと子どもっぽい言い方だったけれども、先生は特に怒りもせずにどういうことが難しいのか聞いてくださったので、「押すのができない」と答えた。

 でもその時、「今のお前が、できるできないを判断するな!」という整体の先生の怒った声が聞こえた(ような気がした)。これは私の心の声なのか、記憶なのか(今のお前に判断する感性はない!黙ってやれ!とよく言われた)、はたまた本当に先生が言っているのか?それは分からない。でも、本当にその通りだなと思う。お話が聞けないのは残念だけど、このクラスで自分の知りたいことは質問してみよう、と思った。

 途中から、胸椎の四番左の硬張りが気になっていた。「心でも体でも、異常を異常と感じれば治るのです」という野口晴哉先生の言葉を思い出した。

 でも、今は身体的な変動があると心理的な揺れも大きくて、それはこの教室にはそぐわないかもしれないな・・・と反省した。整体をやっている割には自己管理能力が低いと自分でも思う。

野口整体の死生観

 先生が亡くなる前日の早朝、先生が救急車で搬送されたという連絡が入った。私は先生には道場で最期を迎えてほしいと内心切望していたが、それは叶わず先生はICUに入ったのだった。

 私は医師の説明が行われる場に同席することになった。もう治療をする段階ではなく、どうなっても不思議はないという、病状についての説明があり、人工呼吸器の気管挿入をするかどうかを聞かれた。つけなければもう今どうなっても不思議ではないが、やってしまうと自力呼吸ができるまで外すことができない。しかし緊急の場合は主治医の判断で行うため、説明の間に先生はすでに気管挿入されていた。

 そして、これから心肺停止になった時、心臓マッサージをするか、という選択をした。内科医の説明は親身で、何もしないという選択にも肯定的だった。

 その後、先生に会うことになった。若くして野口晴哉師に入門し、40年以上病院での治療を受けずに来た体が、気管挿入され、機械をつけられて、白い病院の服を着せられて、ベッドに横たわっていた。その時のショックは今でも忘れられない。極端にいうと、野口整体が瀕死であるかのように思えた。

 その後の主治医との話で、延命効果のための輸血はしないこと、死後解剖をしないことを決めた。そして次の日、夜が明ける前に、先生は亡くなったのだった。

 この時のことを思い出すと、本当はまだ冷静ではいられない。書き尽くせないくらいの思いがまだある。ただ、この経験を通じて、今、病院で死を迎える場合においても、医師がすべてを判断する時代は終わり、自分または近親者が生死にかかわる選択をしなければならないということを知った。

 苦痛と孤立を患者に与えるような終末医療を断る選択ができるというのは進歩だと思うが、それだけに個々の「死生観」が問われることになる。宗教家でも医学者でもない普通の人が、死を受け入れる「時」を決めなければならない。また、やろうと思えば、死を先延ばしにすることはある程度できてしまうくらいの医療技術もあるから、最後まで徹底抗戦という選択もありうる。

 先生の主治医はまだ若く、「命を助けること」に一生懸命になっていて、それで気管挿入をすることになった。しかしその後、40年以上に渡って医療を受けたことがないこと、そして心肺停止後の心臓マッサージをしないことを選択したのを知って、ちょっと驚いてはいたが、輸血をしないことに関しては肯定していた。解剖について聞かれた時、私は思わず「そういう人ではないんです」と答えてしまったが、それも肯定してくれた。

 この若い主治医は「僕も医者は嫌いです」と言いきり、「でも検査は受けてください」と言った。そこで議論しても仕方がないので何も言わなかったが整体に関わる人間は医者が嫌いで病院に行かないのではない。西洋医学の医師と野口整体との間には、健康、そして生死というものの捉え方に大きな相違があるのだ。

それでも私は、ICUで医師とこんな話ができたこと、先生の死を通じて理解したこと、感じたことのすべては、先生の最後の指導であると確信している。「宗教と科学」の問題は、これほどまでに身近で切実な問題なのかと今更のように思う。

 私はこの時の医師たちとの対話のなかで、「先生を失いたくない」という自分の感情もあったが、同時にそれを超えたある掟のようなものを腹の底で感じていた。それは、先生の命が向かっていく方向―生きる方向であれ、死ぬ方向であれ―に逆らうことは決して許されないということだ。この野口整体の死生観というものが、いつの間にか、私の中に根付いていたのだった。

 日本人全体から言えば、野口整体をやっている人はごく少数派で、今後も主流となることはないのだろう。しかし人の生死がかかった現場で決断を迫られる時、野口整体の死生観というものの持つ力は底知れない。ただ、元気な時から、病症の経過を通じて少しずつ養っていかなければ生きたものとはならないのだ。それを伝えていくことが、今後の課題となると思う。

 

平均化体操の会 二回目

②いざ教室へ

 二回目の会は18時30分スタートだったので、熱海に帰れるかどうかを確認して参加した。

今回は一人で基本動作においてもかなり力を入れるという新たな課題が加わった。時折動きのよさそうな人を垣間見てみると、モーションが私の思っているより大きいようだ。

 それに体に力を入れた状態で、脊椎全体が動くようにするというのはさらに難しい。力を入れれば筋肉に意識が行ってしまうし、気を抜けば動きも緊張も流れてしまう。でも、随意筋で背骨を動かすというのはこの運動の特徴のような気がするが、背骨を意識する訓練という意味では、非常に良いような気がした。

「背骨に気を通す」というのは整体でよく言われることだが、緊張が強い時は背骨を感じることそのものが難しいものだ。そういう時は筋肉をまず感じてしまうので、深部にある骨は感じられないのだ。そういう時でも「動かす」と、動きの感覚が背骨の存在を感じさせてくれる。

5~6人、または不特定多数でやる本式の運動は、まだ入り方が良くつかめない。でも、緊張が流れていくのを捉えるというのが良くわからないので、できていないのだと思う。でも他の皆さんはきっとこっちのほうが楽しいんだろうな。今の私にとっては、二人でやるところまでがすごく興味深くて、もうちょっとやりたいな・・・という気持ちが残った。

そしてこの二回目のクラスで先生が特定できた。前でお話をする姿勢は右前、かな?この運動をする目的をちょっとお話してくださったのが良かった。そしてもう一つあるクラスでは、もうちょっと詳しいことが聞けるようなお話があった。

そっちに興味を持ってしまったが、先生の「指導者になることを目的としている講座」というニュアンスが気になった。私は自分がこれを教えようということまでは考えていなかったし、整体指導もあるのでうーん、と思ったが、お話はもうちょっと聞いてみたかった。

平均化体操の会 二回目

「ねじる」ができない

 初回、三つの基本動作(本当は名前があるけど忘れた)の内、私は体をねじる動作ができなかった。活元運動をやっている人はご存知だと思うが、野口整体の活元運動には準備運動があり、その中に腰椎三番を焦点に体をねじる運動がある。

 この場合は、骨盤と肩は同側が前に出る。そして肩というより軸をねじるという感じで、ギューッと力を入れてパッと抜く、という緩急が動きの中心になっている。私はねじるというとそのやり方が身についていた。

 しかしこの基本動作では、骨盤と肩は逆側になる。肩の動きも大きくて、何をしようとしているのか良くわからない感じがした。

 家でやってみても、よく掴めなかったが、ある時「Buenavista Social Club」(Ry.Cooder制作。革命以前のキューバ音楽の映画)のサウンドトラックを聴きながらふとやってみたら、ちょっとほどけた気がした。

何となく踊る時のように、焦点などは注意しないでやる方がいいのかもしれない。それにゆったりした古いキューバ音楽のリズムで、ゆっくり動くのが合っていたのかもしれない。

 他にもあと二つ動作があるが(名前が思い出せない)、前後に動く時も骨盤の前後ではなく脊椎の前後運動で、左右に動く時も脊椎の左右運動、という感じで、どちらもあまりまだつかんだ感じは持てなかった。動作の時、骨盤が先に動いてしまい脊椎が後になる、という私の体の癖が邪魔しているのかな、とも思う。

 対面して手で押しながら動くというのも、手や腕が動作の起点ではない私には結構難しいのだが、苦手な動作をすると、自分の身体がまた新しい感覚でとらえられるような気がする。

 

活は入ったか?

 平均化体操の会参加の後、私は不用品を整理しよう!と思い立った。身体に活を入れるという最初の目的は達したのかもしれない。まず着なくなった古い服から着手することにしたが、いざとなったら、何かが足りない。私はもともと物の整理は得意ではなく、スイッチを入れるために音楽が必要なのだと気づいた。

 それに何だか今の気分としては、ジャズが聴きたい。それも「Sing SingSing」という、よく終戦直後をテーマにしたドキュメンタリーやドラマなどで使われる古い曲がどういうわけか聴きたかった。

 しかし私の住んでいる地方の商店街には、CDを売るお店というものはなく、アマゾンかな・・・と思っている矢先に、偶然行ったホームセンターに三枚組1500円で「The history of JAZZ」というのを見つけた。よくある廉価なベスト盤だが、historyというだけあって、Sing Sing Singが入っている。それを買って服の整理に着手することにした。

 Sing Sing Singは、思った通り今の気分にぴったりで、作業ははかどった。この三枚組には私の好きなアート・ブレーキ―は一曲もなく、コルトレーンマイルス・デイヴィスが何曲も入っていて、少々選曲者の好みが強い気もするが、好きな曲がほかにもいろいろ入っていてお買い得だった。

 生活の中に新しい音楽が入ってくると、なんだか新しい風が吹いてくるような気がする。そういえば、ここしばらく音楽を聴いていなかった、と思う。

 活元運動をするときには音楽をかける人が多いと思うが、私は活元運動の時に音楽をかけるということはあまりない。でもこういう時、音楽というものの持つ力を感じる。

 その後、私は音楽を聴くようになった。昔聴いていたビートルズやクリーム、RCサクセション。それからボブ・マーリーにジプシーキングス、チェンバロが入ったバッハの曲。R&Bを実家に置いてきたのは失敗だったなあ。

 思い出すままにいろいろ聴いているが、聴いていると不意に涙が止まらなくなることがあり、それがしばらく続いた。先生が亡くなる前後から、取り出せなかった感情がまだ残っていたらしい。泣くとすっきりして胸のつかえが取れていくような気がした。眼も洗われていくみたいで、視界がはっきりしてくる。

 どうやら活は入りつつあるようだ。雲が全部晴れたわけではないけれど。

平均化体操の会に初めて参加する

  私は野口整体に入門以来、誰かに何かを習うということはなかったし、やり方は見て覚える方が好きだし、先生と呼ぶのはこの先生だけと思ってきた。それが、どうして行ってみる気になったのかは自分でもいまだにわからない。

その上、こともあろうに私の先生が袂を分かった整体協会の先生であるというのは、弟子としては少々気が引けたが、このクラスは整体協会主催という色あいが濃くない印象だった。それに、野口晴胤氏が何に価値を置き、どういう取り組みをしているのかを見たいという気持ちもあった。

会場は月島にあり、私の引っ越し先を探す(いろんな事情で熱海から小田急沿線に引っ越すことにしていた)ついでに足を延ばすという形で、エイ!と行ってみることにした(でも本当は、ちょっと「潜入する」気分だった)。

 

 初回、私は電車に不慣れなので余裕を持って出かけ、到着した時には会場が開いておらず、先生かスタッフと思しき人が更衣室と開場時間の案内をしてくれた。後でその人は先生ではないことが分かったが、本人が来るとは思っていなかったし、野口晴胤氏のお顔は、一歳時のまん丸な写真を古い月刊全生で拝見しただけだったのでわからなかった(ちなみにこの写真の面影は、今あまりない。当たり前か・・・)。

 和室の会場にはわりと多くの人が集まり、クラスが始まった。その日、初めての参加者は私含めて三、四人だった。

偏り疲労の話が最初に出てきて、なんか整体っぽいな・・・と思っているうちに実技の説明が始まった。初めてクラスの割に意外と展開が早いが、やってみる方が先のようだ。そして、一人でやる基本的な三つの体操(名前があるが忘れてしまった)の後に、二人で組んでやる運動をするのだが、私が驚いたのはここからだった。

 説明が難しいが、向き合って手を合わせ、かなりの力で押し合いながら基本の動作をするのだった。私はこの時点で、やっとこの体操は整体とは構えが全く違うのだと気づいた。

 私が組んだのはちょっと体格の良い若い女性で、ふと不安になって対面して押してくるパートナーの女性の顔を伺ってみると、意外なことに攻撃的というよりは真剣な表情で、ほんのり上気した頬と目の輝きが美しかった。

 私は彼女のきれいさを見て安心し、そうだ、拮抗するぐらいに押せばいいんだ・・・と思って押してみることにしたが、押しながら動くというのは結構難しく、相手と対峙しているので動きが逆になったりするし、引き運動の時も押すというのが大変だった。手・腕を起点にした動作は、私の普段の動きの中にはあまりないせいもあるかもしれない。

 正直言って、その後私はうやむやの裡に初回クラスが終わってしまったので、これ以上のことを書くのが難しいのだが、終わった後の参加者の顔を観察してみると、すっきりしたいい表情をしているし後の場にも清浄さがある。まだよくは分からないけれど、私の中にも明るさと快感があった。それで、これはきっといいものなんだな・・・と思った。

 体に対する支配力を高めるのではなく、体を解放していこうとする方向性をやはり持っているようだ。未完成な感じもあるけれど、純粋さと質の良さを漠然と感じた。

 活元運動の会では運動が出なかったりすることもあるけれど、個々の水準で積極的に参加できる素地があるのはいいことだと思う。

 その日、中心的な役割を務めた若いスタッフの方と少し話ができて、彼にも好感が持てた。活元運動のような「反応」はこの体操にはないようだが、頭の緊張が続いていた私はちょっと頭が重くなったので、少し休んで帰宅した。