アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

大人の天心と活元運動

 最近目が変だな、なんか眠いな…と思っていたところ、道を歩いている時にふいに金木犀のにおいが鼻をくすぐった。そうだ!私は金木犀にアレルギーがあるのだった。うっかり忘れていた…。つい、金木犀なんかなぜ植えるんだろうと思ってしまうが仕方がない。

 そうなってくるとそろそろスープと汁物の季節である。野口整体では晩秋に鍋物、汁物などの食べ物から水分を取る工夫をするよう教えるが、私は今ぐらいからそれを始める。それでミルクスープを作ってみたら、やっぱりおいしい。食べた後背骨から汗が出て、胸の真中あたりが弛んできた。季節の変化は速い。

 そして先日、個人指導で意識状態の話をする機会が二回ほど続いた。活元運動が出にくい人の傾向として仕事をする時のような外界からの要求や刺激に反応するための意識と、眠っている意識のどちらかしかないという特徴があり、これは現代の多くの人がそのような傾向にある。しかも本人はそれが普通だと思っているので、そのことを自覚してもらうのは意外と楽ではないのだ。

 この意識の覚醒時(外界に向かう意識)と睡眠時の中間が、広い意味での瞑想時の意識と大雑把に括ることができ、身体的な身体的な意識と言ってもよい。小さい子どもは大人よりも意識がぽわんとしていているものだが(そうではないと不自然に見える)、大人もそういう意識になれることが健康にとって非常に重要な意味があるのだ。

 野口晴哉はそういう意識状態のことを「頭がぽかんとする」と言い、「良い頭はぽかんとする」とも言った。せわしなく思考し続けているというのは頭の使い方として間違っているということだ。

 しかし考えるのをやめるというのは意外なほど難しい。何か考え続けていて止められないという時、何が絶えず脳を刺激しているのかというと体の緊張であり、緊張や止まらない嗜好の原動力となるのは、不安や恐れ、怒りなどの感情エネルギーであることがほとんどだ。しかしそれに気づくのもまた容易ではない。

 ともかくそういう瞑想的な意識状態を変性意識状態とも言う。また精神医学者のジャネやユングは「意識水準の低下」とも言った。

 これは精神疾患の患者の意識状態が病的になる時、覚醒度が下がることを言ったのだが、ユングはこれをさらに深めて、心理療法をする時には治療する側も意識水準を下げる必要があると言っている(『分析心理学』)。

 そしてこの意識水準を自分でコントロールし、深いレベルに達しようとするのが瞑想の訓練なのだと言う。また近代に急増した精神疾患と人間の意識水準が近代に入って急激に変化したことには深く関係があると考えていた。

 このように意識水準というのは人によっても相当な違いがあり、修練によってそのレベルが変わっていくものであり、活元運動の進歩や洗練もそれによっている面がある。

 ともかく、こういうことは意外と知られていなくて、教える必要があることだと再認識した。そしてこういう時いつも思い出す、野口晴哉の「大人の天心」という講義録を紹介しておこう。

註・野口整体では身心の弾力を保ち、健康に生きるための心の状態として「天心」を教えている。天心というのは、晴れ渡った空のように曇りのない、何のわだかまりもない澄んだ心の状態。身心が自然であることと、天心であることはひとつ。

大人の天心 1973年5月整体指導法中等講座

 人間は智恵があれば智恵を鍛えて、万全に逞しく生ききり得れば、それが自然です。私が無心とか天心とか言っていますが、赤ちゃんにそんなものは求めないのです。赤ちゃんは天心以外の何物でもないから、赤ちゃんには俗心を持つべく教えております。大人には天心を持てといいます。

 大人が天心になるのは大変なことです。それがもし赤ちゃんと同じ天心になったとしたならば、大人は俗心を超えてきたのですから、鍛錬されぬいた天心です。

 だから赤ちゃんの天心には自然を観ないが、大人の天心には私は自然を観るのです。自然というものに私は、そういう鍛錬しぬいた一点というか、何かそういうものを観ているのです。

 だから大人が無心になれば、根性の悪い人が天心になれば、それは見事なものです。赤ちゃんが天心になるのは少しも見事ではない。赤ちゃんは天心以外にならないのですから。

…人間の体で一番健康状態に関連があるのは体の弾力であります。つまり体や心に弾力を持っていないと体の自然の状態といえないのです。硬張って、歳をとって死ぬのも当然だけれども、生きていくという面からいうと、硬張っていくのは正常ではないのです。

 それで体の弾力を、或いは心の弾力というものをどのような状態でも持ち続けるということに於いて鍛錬という問題が出てくるのです。

 大人になって天心を保つのは鍛錬が要る。いろいろな問題があって、自然の気持ちを保てないような状態のときにでも尚保ち続けるというのはやはり鍛錬です。