アルダブラゾウガメ玄の生活 ― 気は心と体をつなぐもの

整体生活・野口整体と生きることをひとつに

個人指導の意味 2

 整体指導の中には自力と他力があって、自力というのは、「自分の健康は自分で保つ」という心構えを持つことだ。

 これはもっと正確に言うと、健康な状態というのは心身の自然な秩序が保たれているということであり、それを乱さないように、またそれを活かすように生活するという意味である。

 「自分で保つ」と言うと、健康や生命、自然というものを「自分(という意識)」で管理することだと思うかもしれない。責任を持つという意味ではそうだが、健康というものの本体は、意識しての自分ではなく、生命である。そういう視点に立つ事で、病症経過や、活元運動の意味が理解できる。

 そして他力というのが個人指導だが、整体を実践する人で、活元運動だけやっていればいいと思う人の中には、個人指導を「指導に対する依存が生じる」と言う人もいる。

 こういう事情の大本には、没後40年以上を経て、野口先生が一般の人に向けて語ったことと、指導者になる人に向けて語ったことの区別が、分からなくなってきていることも背景にあるが、私の師匠存命中も、このようなことを言う人がいた。しかし、それはその人の不信感の表れ、または誤解である。

 前回、野口晴哉は、整体指導とは「育てる」立場に立つことだと書いたが、こういう違いは、「教える」ことと「育てる」ことの違いにも似ている。

 整体の方法論や知識、身体技法を「教える」こと、やり方を覚えて自分でできるようになることも、もちろん大切ではあるが、心(潜在意識)と体という生きる上での基盤は「育てる」ものなのだ。

 治癒系(自然治癒力)が働くようにするホルモンと、成長ホルモンは同じだと聞いたことがあるが、自然治癒力が働く条件と子どもの成長に必要な環境は共通している。

 子どもは自分を守らなければならないような環境では、育っていくことができない。安心して、要求を充たし、体を弛めることのできる場と、見守る人が必要なのだ。自然治癒力が働く条件と同じである。

 こういう条件下であれば、問題があっても、良くなっていく方に向かう流れが自ずと生じてくる。これが、体の自然の持つ力、無意識を信頼するということで、本来、成長に向かうのが子どもの自然であり、自然治癒力が働き、健康が保たれるのが自然であるということだ。野口先生的に言えば「『育つ(という内在する力)』を育てる」ということになる。

 野口整体では、子どもの病気の多くが発達のアンバランスや停滞によるもので、子ども時代にかかる感染症の多くは、発達の過程で必要な刺激であり、大人の慢性的、または繰り返す疾患、心の癖などの中にも、発達の過程で取り残されている部分が影響していると観る。

 野口整体のこうした見方は経験智とされていたが、次第に医学的にも共有されるようになってきている。

 個人指導では、体に手を入れ、心身を弛め、気を充たすことを行う。自分という意識を超えた何か、というのは、病症や心の葛藤だけではない。生きる力も、乗り超える力もそこからやってくる。個人指導で、そういう力が働き出す手伝いをする…というのが、今の私の目標である。

 私の師匠がそういうやり方だったこともあって、私は指導時によく話をするのだが、相手が言葉で訴えることはあまり本質に触れていなくて、こちらが観察で捉えたことを問いかけ、それを共有するために話をしている。

 私の師匠は、「野口先生がじっと自分を観る眼が内在化して、自分を観る眼になった」と言った。東洋医学でも診断即治療というが、整体的に言えば、観察即治療である。手で触れて、眼で見るということは、それだけで良くなっていく働きを呼び起こす力がある。

 それは科学的な、客観的観察というのとは全く違う「観る」である。

 ずっと以前、アルコール依存症になりかけた人を観ていたことがある。当時私は山の中の一軒家に住んでいたが、その人が木の伐採を手伝ってくれて、一緒に焚火をすることがあった。

 その時、ちょっと火柱が高くなってしまったのだが、その人は「人が見ている火は燃え拡がらない。でも観ていないと、人が目を離すと火は燃え拡がる」と言った。私はすぐに、この人は自分の心、襲ってくる情動のことを言っているのだと思った。その人は自分の野性を殺すことができない人だった。

 私の祖父は「親が子供から目を離すと、子どもは水の中に引かれて溺れる」と言った。見る、ということが見る対象に影響を与えるのは、そこに「気のつながり」があるからだ。これが、一般的な「見る」や客観視とは違う、気を集めて「観る」ということなのだ。

 あー、やっと書けた…。私の修行も、まだまだ続く。